“六甲”での短かった学生生活。
その中で、今もなお、直接脳ミソに油性マジックで書かれたのかと思うほど、消えない"屈辱"の記憶。
学校の帰り道、同級生数人と駅にほど近いハンバーガー屋に立ち寄ることになった。たしかモスバーガーだったか。
校則で、そういった場所に制服を着たまま立ち寄ることは禁止されていたはずなのだが、同級生達は慣れた様子でなんの躊躇もなく入店していき、次々と注文を済ませ、席に陣取っていく。
僕は、自分の注文の順番がまわってくるのを、列に並んで待ちながら、脂汗だか冷汗だかよく分からない謎の液体を分泌させ、体中をぐっしょりと湿らせていた。
要するに、極度に緊張していたのである。もうパニックと言ってもいいほどに。
なぜなら、当時の僕は“そういう”お店に、入ったことがなかった。過激なサービスが売りの大人のお店の話ではない。
ただのハンバーガー屋のことである。
同級生たちは、中学に上がる前から、そういう場所に“華麗に”出入りしていたのだろう。
都会育ちの、ボンボンが多かった彼らは、何をするにもスマートだった。
お小遣いで、自由に自分の着る洋服なんかも買っていたに違いない。そもそも、それまでの僕は、自分で買い物に行ったことすらなかった。
いや、“コープさん”(生協)で、母から頼まれた"絹こし豆腐"だとか、"М寸の卵"だとかを“ショッピング”したことくらいは勿論あった。
遠足の前に友達と、近所の駄菓子屋で300円分のお菓子を買ったりしたこともある。
が、自分が着る服や靴、そういったものは、親が買ってきたものを黙って身につけることしか許されていなかった。
映画なんかも、学校の体育館でみんなと観る、忍者ハットリくんが交通安全を教えるヤツしか見たことがなかった。
そういうことをきっかけに子供が“不良”になるのだという、頑なな思考が両親を支配していたように思う。
ただ、親のセンスなど何一つ信用できないのである。
大学時代、両親から一度だけ仕送りの荷物が届いたことがある。見ると、中には米などの食料、手ぬぐいや下着などの日用品に混じって、“ジーパン”が入っていた。
そのジーパンの後ろのタグの部分を見ると、筆記体の英語で、「スティーブンスピルバーグ」と書いてあった。
どこで売ってんねん。
小学生の時、買い与えられていた靴なんかも、どこのメーカーかよく分からない変なジョギングシューズ風の安物が多く、友達の履いている、“アディダス”や“ナイキ”を見ては、恥ずかしく思った。
しかも僕はその靴を、たいがい親指の所に穴があくまで履かなければ、次の靴を買ってもらえなかった。
小学生の時分、それを見た女子の一人に、「山田君の靴、いっつも穴あいてるね?」と、みんなの前で指摘されたことがある。
公衆の面前で、侮辱されたように感じた僕は、その子を恨んだ。
成績が良かろうが、サッカーが上手かろうが、靴に穴があいていては子供の自尊心は守れない。
彼女の家は、何やら不動産業を営んでおり、僕が住んでいた街の中では間違いなく“金持ち”の部類で、たまに田舎で見かける、「日本のお城」みたいな、すこぶるセンスの悪い家に住んでいた。
実際、大きな石垣の上に、天守閣のようなフォルムの住居部分が建っていた。
僕の記憶の中で、彼女の家は、姫路城に引けを取らない威容を誇っている。
僕は、いつかこいつの一族を倒してやるんだと、心に誓った。
話を戻そう。
とにかく、それまで、勉強と運動、部活で結果を出してきたし、それさえ頑張っていれば、自分の人生は順風満帆なのだ・・・そんなシンプルな価値観の中で生きていたのだが、この「放課後、友人達とハンバーガーショップで買い食いする」という、他の人にとってはなんてことのないミッションが、僕の人生を一気に複雑にし、それまで信じてきた価値観が揺らぎ出したのである。
前述の通り、パニック気味になっていた僕は、何を思ったか、ハンバーガーばかり五個頼んだ。
舐められたくなかった。
「これくらい頼めば、馬鹿にされることはないだろう」そんな気持ちだった。
店員に何度も「いいんですか?」と聞かれたが、あくまで僕は五個なんだと頑なに拒んだ。
席にいくと、「そんなに食べんの?なんで?」と皆が聞いてきたが、僕は「いつもこんな感じだ」とあくまで、これが自分のスタイルだと強調し、食べたくもないハンバーガーを口に押し込んでいった。
人生初めてのハンバーガーは何の味もしなかった。
世紀末を舞台にした漫画のボスキャラが、地面に膝をつくことを拒否したように、僕は、ハンバーガーの注文の仕方も知らない田舎者であることを認めるわけにはいかなかったのだ。
ちなみに僕の娘は、わずか三歳にして、「アンパンマンのハンバーガーショップ」で、すでに、注文どころか、店員役も華麗にこなす。
これならあんな屈辱を味わう心配はないだろう・・・と言うより、そんなことで屈辱を覚えるような、しょうもない人間にはなって欲しくないのである。
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