「中学時代」




(中略)

・・・毎日がそんな風だったので、朝御飯を食べる暇がない日もよくあり、そういう時は、母が弁当を作ってくれる際、余分に握っておいてくれたおにぎりを、行きの電車の中で食べた。


“電車で食べた”と言っても、そこは普通の“通勤電車”の中での話。

旅行に行く時に乗る電車の、クルッと向かい合わせに出来るボックス席もなければ、窓から見える絶景もない。

そこには、今から訪れる行楽地に対する期待、温泉、地元の美味、人々との触れ合い・・・そんなものに胸躍らせる、家族やカップルの笑顔もない。

ただの日常。

疲れ顔のサラリーマンの群れと、中学生のガキである僕しか存在しない。

席に座る事が出来ればまだいいが、前述の通り、朝の通勤ラッシュ時のこと・・・そんな事は、100パーセントない。


“混雑”と言えば、この時期、危うく“圧死”しかけたことがある。


その日、僕は車両の先頭部分に陣取っていた。

いつもにも増して混雑がひどく、大量の大人達によって、丁度、運転席が見える窓の部分にとてつもない圧力で押し付けられた。逃げ場はない。

僕はその時、お菓子の“海老満月”のことが頭をよぎり、自分もこの電車が終点に到着した時分には、この窓ガラスに「ペタン」となっているのだろうかなどとボンヤリ考えていた。

ガラス越しに運転士の人の背中が見えたが、彼もまさか自分のすぐ後ろで中学生の子供が海老満月になっているとは知らず、電車の操作に集中していた。


誰も助けてくれないんだ・・・あれほどの絶望感は、その後の人生でも数えるほどしかない。

圧縮袋の中の布団のように、ギュ―・・・と肺の中の空気をすべて絞りとられ、息が出来なくなり、「あっ、死ぬ・・・」と感じた刹那、気が遠くなった。


幸か不幸か、親戚縁者とも疎遠だったせいで、身近な死人がいなかったので、三途の川の向こう岸から手招いてくれる人もいない分、すぐに正気を取り戻し、生還することが出来たが。

あのまま行けば、“押入れ”ならぬ、“棺桶”にそのまま収納されていても不思議ではなかった。


とにかくである。

おにぎりは、床に座り込んで食べることになる。


電車で化粧をする女性は、「公共の場で何しとんねん!みっともない!」と不快な感情を呼び起こすものだが、電車で座りこんでおにぎりをむさぼる子供は、何かしらの憐れみを誘うようで、堂々と食べていたのだが、周囲の大人達には、特に何も注意されたり、怒られたりはしなかった。

“絵的”にもよかったのかもしれない。


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当時の僕は漫画「キャプテン」に出て来る中学生のように、丸坊主の毬栗頭で、そこに、上部がもこもこした学生帽をキッチリと被っていた。

さらに、六甲の制服が、海軍士官をイメージした詰襟のもので、パッと見、「戦時中の少年兵がひもじくておにぎりを食ってる」みたいに見えたのかもしれない。

知らんけど。


アルミホイルで包まれた、母の握ったおにぎりを、電車の床に座り込んで食べる。

周りは大人達の足だらけだ。

その林立する足の森の中で、ひっそりとおにぎりを食べる様は、もはや、妖怪の一種。

おそらく、何人かの大人は、会社に行って、ズボンのすそにご飯粒が付いている、まさに妖怪の仕業としか思えない現象に出会ったはずである。




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