
前橋刑務所の煉瓦塀です。塀を巡る堀の水は風呂川から引水しているので、風呂川の水が止まっいる今年の冬はほんの僅かな溜り水しかありません。その溜水が…

溜水は堀の底にへばりつくように凍り付いていました。前橋のアメダスの記録では朝の最低気温は-0.8℃、9時の気温は3.3℃でした。寒い朝、私は高崎に向かってペダルを踏んでいました。
寒かったですけど日差しはちゃんと届いていました。COCOは朝から陽だまりの中、正月が開けてただの昼寝になりました。気持ちよさそう、起こさないよう声を掛けずに家を出ました。

コーヒー豆が終わりそうなんで、高崎市日高町のBrownWorksへ買いに行くことにして、ネオンライム号のペダルを踏んだんです。前橋駅前から、前橋刑務所前に出て、利根川は平成大橋で渡りました。1991年に完成した新しい橋、斜張橋という構造の橋です。

橋の上から見た利根の流れです。写真の右側、枯れた草むらの前に鳥の群れです。カワウの群れですね、川岸の石の上でてんでんに羽を休めています。中に、アオサギが2羽紛れ込んでいました。風の凪いだ橋の上から川を眺めながら、父がこの街に来た時最初に住む三着いたのは、橋の手前の紅雲町の借家だったと言っていたのを思い出していました。

群馬県立勢多農林高校の上泉農場(写真は勢多農HPからお借りしました)です。1940年(昭和15年)旧制の専門学校のときに開設されました。そいで、1942年に、私の父は農場主任として茨城県の結城農高から招かれて赴任したんです。父は宇都宮高等農林専門学校を卒業した畜産の専門教員だったんです。

昨年の4月に撮影した上泉農園の正門からの風景です。30年前、この農場が大改修されたとき、県教委の職員として手伝わせてもらいました。それに、私が生まれて直ぐの1945年5月から私の家族はこの農場の納屋に米軍の空襲を避けて疎開させてもらっていたんです。この農場がなければ、父はこの地に来なかったでしょうし、私も生きていなかったのかもしれません。

天川大島町の戦災住宅跡の住宅地です。前橋空襲で住む家を失った人々を収容するために作られたのが戦災住宅、4.5畳と6畳の二間に土間の台所の2軒長屋、8軒に一つの共同井戸でした。私が物心ついたのはこの地でした。その頃の父は、家にいる限り、一つしかない小さなちゃぶ台でいつも書き物をしていました。ペンで絵や図も描いてました。今でも背中を丸くしてせっせと書き続ける姿をよく記憶しています。
<ヒゲの父さんは畜産の技術書を書いてたんだいね。ネットで調べたら今でも残ってらいね。『最新養鶏法』(英進出版部1948年)、『図解の畜産 うさぎ』(実業教科書1949年)、『豚舎の設計と設備』(地球出版1949年)『養鶏図覧』(高城書店1955年)、4冊見っけたぜ。このほかに高等学校の畜産の教科書も執筆してたんだって。昼間は勢多農で生徒の指導をして、夜は家で専門書を書いてたんだね…>

高崎の新保田中町の集落道からは、長野と山梨の県境の八ヶ岳の姿が見えていました。すごいですね。父は福島の飯坂温泉の出なんです。「佐直」という屋号で反物や和装品の小売りをする商いと、醤油の醸造・販売を業とする商家で生まれ育った人でした。「佐直」の家はもう絶えて無くなっています。山と違って家はなくなるものです。

日高町のBrownWorksCoffeeでコーヒー豆と焼き菓子を買いました。父が旅立つ数日前、「キョウイチ、カキフライが食べたいな…」ってせがまれました。作って進ぜると、旨そうに食べてくれました。その翌日、全身の力が抜けるように椅子の上に崩れ落ちました。そして、帰らぬ人になりました。31年前のことです。

染谷川の橋の上から眺める赤城山です。大泉高校と佐波農業高校の校長を務めて60歳で定年退職した後は、一切の職業としての仕事を拒み、油絵を描いて暮らしていました。赤城山もずいぶん描いていました。88歳まで、28年間「絵描き」をやってた老人でした。

父が逝ったのは88歳になってすぐでした。私も4月には80歳になります。父が逝った歳にずいぶん近づいてしまいました。父は、埼玉、長野(伊那)、茨城(結城)、群馬(前橋)と畜産技術の普及・指導のために各地を渡り歩いてたんです。でも、敗戦による教育制度の改変で、群馬県に定着させられました。もしそうでなかったら、私は何処で暮らしてたのかなって思うこともあるんです。無駄なことなのですが…

1945年ごろ勢多農林の実習室で撮った写真のようです。前列右から2人目の丸メガネが私の父、まだ40歳です。丸メガネでした。よく覚えています。

夕食のおかずは、天ぷらとシロダイの味噌漬け、それに、モヤシと人参のナムル、ホウレンソウの浸し、具だくさんの野菜汁でした。野菜汁にはゴボウ、ダイコン、ニンジン、シイタケ、カキナ、豆腐が入っています。出汁はキントキダイの中骨です。

天ぷらは、ホタテ貝柱と春菊のかき揚げ、それと舞茸です。シロダイは、鯛チリをしたときに食べきれなかったのを味噌に漬けておいたんです。おいしいんですよ、自家製の味噌漬け。
遠い記憶は記憶として、きょうはNiiSへトレーニングに行ってきます。ネオンライム号の累積走行距離が2,400kmを超えるはずです。
ヒゲじいさんの連れ合いの三代目若柳吉駒でございます。
1937年(昭和12年)に祖母の初代吉駒が始め、伯母の二代目吉駒から私に引き継がれた美登利会を主催しております。本年4月には第80回の舞踊公演を行うことができました、こんなに長く続けることができておりますのも、会を支えてくださる多くの皆様のおかげと、ただただ有り難く、感謝申し上げるばかりです。2月11日に東京浅草公会堂で開かれます東京新聞主催『第99回女流名家舞踊大会』に出演させていただきます。また、4月6日には、第81回美登利会舞踊公演を昌賢学園まえばしホール(市民文化会館)大ホールでの開催させていただきます。美登利会会員一同精進を重ねてまいりますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
《最近の美登利会と吉駒リサイタルの舞台をご覧になりたい方は…》
第80回美登利会と第5回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧ください。
第79回美登利会と第4回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧ください。
第78回美登利会と第3回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧下さい。
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第76回美登利会と三代目吉駒襲名リサイタルはこちらでご覧下さい。
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