とんでもないことに気が付いた。
今まで1ギガ積んでたはずのメモリが実は半分しか認識されていなかったのだ。

ちょっとしたことを調べようとして
ネットしていたらあるページで
「自分のパソコンのスペックがわからない人へ」とこんなソフトが紹介されていた。

「いや自分のパソコンのことぐらいわかれよ」と思いつつ、試しにやってみたら。
メモリが認識されていないことが判明した。

知ったかぶりもいいところだ。
恥ずかしい。

そういえば昔、全然パソコンについてわからない頃、
詳しい友達にやたら専門用語ばかりを使われて、わかんねーよと思ったことがあった。

それに僕は今なっていないだろうか?
それはパソコンに限らずだ。

世の中は知らないことばかり。それに真摯に向き合おうじゃないか。
実名出してしまうけれど、シダックスにもの申す。

先日、ひさしぶりにカラオケに行った時のこと。
ちょっと「信じられない」ことをされた。

何も頼んでいないのに、歌っている途中に店員が部屋に入ってきたのだ。
何か悪いことをしたかな?怒られるのかな?なんて思っていたら

「本日から鍋メニューが始まりました。一番安いので700円からございます。いかがでしょうか?」
と店員はなんと宣伝をしたのだ。

これには僕らもあっけにとられ、しばし呆然とした。

それでも店員は「いかがですか?おいしいよ」という顔で待っていたので、
「いや、とりあえずいいです」と力無く返答した。

僕らは普通に歌っていたからよかった。
だけれど、どうだ。
もし、プロポーズ代わりの歌を恋人に歌っていたなら。
もし、上司の機嫌取りにとって置きの一発芸を披露していたなら。
もし、最後の締めの歌を盛大に歌っていたなら。
もし、歌を止めて喧嘩していたなら。

想像は尽きない。
電話はしかたないにしても、注文もしていないのに入ってくるのは無しでしょうよ。
生きることは難しい。
最近、実感するのだ。

不幸は買ってでもしろ。
涙の数だけ強くなれる。
幸せの総量は同じ。

その手の言葉は巷に吐いて捨てるほどある。
それは本当なのだろうか。
高校の頃から、考え続けたことだ。

それに対して、村上龍が「愛と幻想のファシズム」のなかで一つの答えを見せてくれた。
その主人公が言うには
「単純な消費」というものは存在する。
不幸だとかなんだとかはまったく力にならない。
そういう状況に慣れることなど無く、むしろそういう状況に出くわした時の為に
力を蓄えておくべきだと。

それが正しいとは思わないけれど、
あながち間違ってもいないように思う。

虐待を受けたものは虐待を犯す。
貧乏が故に汚いこともする。
不幸せだから人を妬む。
これもよく聞く話だ。

僕が人より不幸なんだなんて言うつもりはないけれど
それなりに不幸なことにも出くわしてきた。
そこで僕は何かを得たのだろうか。
ある種の卑屈さと単純な疲労感だけなのかもしれない。

あるいはまだまだ不幸が足りないのかもしれない。
それが大成するだけの栄養を人生は欲しがっているのかもしれない

いつか年を取って、
「若いうちに苦労しておけ」とはっきりと言えるようになりたい。
幸せになったら言えるのだ。
最近、旅がすきだ。とても好きだ。
昔はすごく嫌いだった。
何万円ものお金を数日で使うなんて信じられなかった。何か残るものを買うべきだと信じて疑わなかった。

それが最近の旅キチぶりときたら。

話は変わるけれど、
魔物にとりつかれたという表現がある。
僕もそうだ。

四国に行って以来、さぬきうどんの魔物にとりつかれている。
うどんが食いたい、うどんが食いたい。
夢にまで見る。

おそるべし、さぬきうどん。