礼拝は 毎週日曜日
朝 10時半から
夕 6時半から
説教をユーチューブに
朝 6時から流しています
展望公園 春が来た
ヨハネ 4章 5~ 26節
「水を飲ませて下さい」。
イエス様は一人の人に声をかけられます。
サマリアの女の人でした。
昼の12時です。
井戸のポンプもない時代、水汲みは重労働です。
なるべく涼しい時間にしたいものです。
どうしてそんな時間?
「あなたには五人の夫があったが、
今のはあなたの夫ではない」と
イエス様はその人に言います。
どんな事情があったのでしょう?
分かりません。
けれども分かることは、
別れには痛み、傷、悲しみがあるこということ。
愛する方が亡くなられたら、
まるで自分自身を失ったように感じます。
また、ケンカや憎しみや疑いによって
サヨナラするのも心がズタズタになります。
今でも家庭内の暴力や
精神的に追い詰めるなどの問題があります。
♪聞き分けのない女のほほを一つ二つはりたおし
ボギーあんたの時代は良かった
なんて歌もありましたが、
今よりも女性に男性がいばっていた時代です。
女性の側から
別れを切り出すなんてことはありえないでしょう。
「五人の夫があったが、
今のはあなたの夫ではない」。
どれだけ深い傷を負っているのでしょうか?
後ろ指を差す人もいたでしょう。
人と顔を合わなくて済む
真昼に水汲みをしていたのでしょう。
ですから
「わたしが与える水を飲む者は、
いつまでも、かわくことがないばかりか、
わたしが与える水は、
その人のうちで泉となり、
永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」
と言うイエス様に、この人は
「主よ、わたしがかわくことがなく、
また、ここにくみにこなくてもよいように、
その水をわたしに下さい」と答えます。
それは切実な願いだったでしょう。
この願いにイエス様は
「あなたの夫を…連れてきなさい」と言い
「五人の夫があって・・・」になります。
嫌なことを言う?
触れてほしくない傷?
それなのにこの人は
「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」と答え、
この後、礼拝についての話題に展開していきます。
とっても不思議です。
「どうして私のことを知ってるの?」
と疑心暗鬼になったり、
無神経さに怒ったりしなかったのでしょうか?
預言者と尊敬できたのはどうしてでしょう?
きっとその目、表情、しぐさに
優しさが溢れていたのでしょう。
あなたの過去、傷、恥そして疲れ。
すべてを包み込む愛に溢れていたのでしょう。
このイエス様が今日もここにいて、
私たちの疲れを癒してくださいます。
今回の出来事で面白いのは、
イエス様ご自身が疲れ果てていることです。
「すべて重荷を負うて苦労している者は」、
疲れている者は皆「わたしのもとに来なさい」
と言われるお方が
クタクタになって井戸端に座り込まれた。
神であるお方が、のどが渇き、へたり込む。
私たちの疲れを知るお方となってくださいました。
体の疲れだけでなく、心の疲れも味わわれたでしょう。
私たち誰もが精一杯生きています。
そう見えない人もそうです。
体のつらさでも他人には分からないことが多く、
その心を傷つけることがあります。
まして心の疲れはもっと分かりません。
つい頑張ってなく見える人に厳しくなります。
つらい人がなお後ろめたさをかかえ
自分を責めるかもしれません。
けれども井戸端でへたり込むイエス様が、
疲れを知るお方としてこられました。
このお方が、あなたの疲れを癒し、
心の渇きを潤してくださいます。
「まことの礼拝をする者たちが、
霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。
そうだ、今きている」。
この疲れを知るお方、
そして疲れ、傷を癒し、慰めと平安を与える主が
「霊とまことと」の礼拝の真ん中におられます。
「霊とまこと」。
それは私たちの思い以上に
神の霊とイエス様の真実です。
永遠の命に至る水を与えてくださる主は、
渇きに渇ききられました。
それは十字架の上でです。
「わたしはかわく」。
そして「すべてが終わった」「完了した」と
言って息を引き取られました。
このイエス様の「まこと」によって、
私たちは礼拝に招かれ、
主からの永遠の命に至る水によって潤されます。
この後、女の人は町に出て行きます。
「わたしのしたことを何もかも、言いあてた」
「この人がキリストかも」と人々に触れ回ります。
多くの人がイエス様を信じました。
人の目を避ける者から恵みを伝える者へ!
イエス様のまことと神の霊によってです。
この主が私たちの心を潤してくださいます。

