マルコ 4章 35~ 41節
先日の聖書祈り会は詩129編。
「彼らは私の若いころから私を苦しめた」。
鍋谷師の本は、この詩篇から奴隷制度、黒人差別の問題を語ります。キング牧師の暗殺される前日の「実現せざる夢」という講演が紹介されていました。
そして祈り会で、では詩篇で語られている
「彼らは私の若いころから私を苦しめた。
彼らは私に勝てなかった」の
「勝てなかった」とは何なのか?
迫害する者が勝てない。私たちの勝利とは何なのか?
について語り合いました。
キング牧師はこう語ります。落胆、幻滅もあります。
「平和の神殿…戦争に反対し、抗議します。
しかし不可能なことを試みているように思われることがあります。その努力は無に帰しているように」
「あなたはそれを見ることはないかもしれません。
夢は実現しないかもしれません。
しかしあなたがそれを実現しようと願っていることは、
よいことなのです」(列王記上8:17~19参照)。
痛めつけてくる敵への勝利。
それは相手を打ちのめすことによってではありません。
イエス様は
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。
あざ笑われても、打ちのめされても、
「私たちは主の名によって私を苦しめる
あなたがたを祝福する」です。
揺るがされないで、そこに立つ。
そのように口にするのは簡単です。現に戦争の真っ只中におられる方々には戯れ言にしか聞こえないかもしれません。
でもキング牧師が夢を抱き、たとえ実現をその目で見ることがなくても、主がそれを良しとされると信じたように、私たちも平和を願うことを止めてはいけません。
理想を目ざしつつ、
今、現実的にどう振舞っていくのかが大切です。
戦争、迫害。そんな大きな問題でなくても、
私たちの心を乱す嵐があります。
嵐の中、どう生きるか?
「激しい突風が起り、
波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった」。
漁師、船に乗りなれている弟子も命の危険を感じています。
そんな中、ぐっすりと眠っている人がいます。
誰でしょう?
イエス様です。さすがです。
でも弟子たちは心配です。嵐、突風に船の中に打ち込んでくる波。必死になって何とかしようとするのは当然です。
でも眠っているイエス様に
「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、
おかまいにならないのですか」。これは何?
「先生、このまま眠ってたら死にますよ。起きてください」
と心配でなく?
イエス様が眠っていられる。
それは父なる神様への信頼はもちろん、
船を操る弟子たちを信頼して任せているからでしょう。
それなのに
「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、
おかまいにならないのですか」?
「いい加減愛想が尽きた。もう君たちには任せておけない」と見限られるかもしれません。
イエス様は、風をしかり、海にむかって、
「静まれ、黙れ」。
風はやんで、大なぎに。
「なぜ、そんなにこわがるのか。
どうして信仰がないのか」。
お叱りになられました。
でも弟子は弟子のまま。
見捨てられはしませんでした。
それどころか、イエス様は弟子たちに教会を、将来を委ねていかれました。今は父の右で祈ってくださっています。
信じる私たち、今ここに集まる私たちに教会を委ねてくださっています。あまりに畏れ多いことです。
私たちを襲う嵐、不安は沢山あります。
考え出すと、イエス様のように、ゆっくり眠れません。
けれども弱い私たちと共に、
風も海も従わせることのできる
イエス様がいてくださいます。
「どうして信仰がないのか」
と叱られるオロオロクヨクヨ。
けれども主キリストにおける神の愛から、
私たちを引き離すものは何もありません。
心が激しく波立つ時も
「どうかこの心を静めてください」と祈りつつ
人生の船路を主と共に進んでいきましょう。
またパレスチナ自治区のベツレヘムと広島。
互いのルーテル教会同士の交流が新聞に載っていました。
神の子、
私たちも十字架と復活の主キリストに結ばれて神の子、
キリストとの共同相続人とされています。
そうです。
私たちも小さなキリストとして歩みます。
近くにも、嵐に悩む人がいます。
その方々の平和を祈り、働く、
嵐を静める小さなキリストとして、イエス様に信頼して。
先程のキング牧師の講演では、奴隷制の中で歌われた♪Nobody Knows de trouble I seenが紹介されています。
But Jesus
イエス様だけがこの悩みを知ってくださっている。
嵐の中も、主があなたと共にいてくださいます。