須磨離宮公園のバラ
マルコ 4章 26~ 34節
イザヤ 6章 1~ 8節
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、
その栄光は全地に満つ」
六つの翼を持つセラピムが歌い、神殿の敷居の基が震え、煙が満ちます。
「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」。
罪、汚れたくちびるの者が、まことに聖なる万軍の主の前に立つ。それは命に関わることです。
けれどもそこに罪の赦しがありました。セラピムが祭壇の燃える炭を取り、イザヤの口に触れ「あなたの罪は赦された」と宣言しました。私たちもそうです。イエス様の十字架による罪の赦しによって、大胆に主の前に出ます。
礼拝は大きく三つに分けられます。
①開会、主に招かれ
②御言葉、聖書を聞き、また見える御言葉~聖餐にあずかり
③派遣、祝福の宣言がなされ、主キリストの平安の内に、神の子、イエス様の弟子として出て行きます。
イザヤも「だれをつかわそうか」との主の言に応え
「ここにわたしがおります。
わたしをつかわしてください」。
御言葉を語ることを申し出ます。
それに対して、主はどう応えられたでしょうか?
よく言った、と?いいえ、
「この民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざし…その目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないため」
イザヤが遣わされるのは、
かたくなで聞かない、悔い改めない民にです。
思わず「主よ、いつまでですか」。
語っても無駄なんですか? 希望はない?
主は言われた
「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となる」。
裁きの日まで、民は決して悔い改めないと!
けれども「わたしがおります」と応えたイザヤ、
御言葉を語り続けます。
今日、イエス様は
「地はおのずから実を結ばせるもので、
初めに芽、つぎに穂、
つぎに穂の中に豊かな実ができる」。
神の国の成長を約束されます。
けれども今日の箇所の前の種まきのたとえでは、道ばたに落ちた種、石地の種、いばらの中に落ちた種が語られています。
そして先程のイザヤの言葉
「彼らは見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、悟らず、
悔い改めてゆるされることがない」を引用し、
神の国を譬で語る理由を説明されます。
聞いてもらえない、福音を伝えたくても難しい、
私たちの現実です。
イエス様の十字架、復活の罪の赦しと永遠の命をいただいて出て行く。それは福音を語り伝えるだけではありません。
赦された者として互いに赦しあう、
イエス様が愛してくださったように
互いに愛し合うために出て行きます。
そんなお一人お一人の内に
神の国の種が蒔かれています。
♪いつくしみと愛のあるところ主共に♪
「神の国は、実にあなたがたの まっただ中にある」。
神の国とは、イエス様が王であること。
愛である主が私たちの心の真ん中におられることです。
愛、喜び、平安、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制。
そんな聖霊の実を求め生きるあなたに、
神の国の種は既に蒔かれています。
イエス様は言われます。
「地はおのずから実を結ばせるもので、
初めに芽、つぎに穂、
つぎに穂の中に豊かな実ができる」。
またからし種は
「地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、
まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、
大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」と。
それは命を宿しているからです。
主の一方的な恵みです。
神の国の種は必ず良い実を結ぶ。
イエス様は100%の確信を持って語ります。
そこに一点の迷いもありません。
それは十字架と復活によって成就された
神の恵みだからです。
心を乱します。でも大丈夫。
怒りを爆発させ、怒り続けることもあります。
でも大丈夫。
あなたのためにイエス様は十字架で死んで
全ての罪を赦してくださっています。
先が見えない?でも大丈夫。
死んだイエス様は、死に勝ち復活されました。
ですから絶望しても大丈夫。落ち込んでも大丈夫。
十字架で死んで復活されたイエス様が、
あなたを背に担いで歩いてくださいます。
主に信頼して歩むあなたに、
主が、神の国の実を結ばせてくださいます。
あなたに蒔かれた神の国の種。
それは死を超えた新しい命の実を結びます。
病気が恐い。治療がつらい。死ぬのが恐い。
けれどもその狭い門をくぐった向こうにある
永遠の御国が約束されています。
主によって、目の涙を拭われ、
愛、喜び、平安に満たされ、
心から主を讃美し、互いに愛し合っていきます。