教会のアジサイ  すっかり  赤く

 

 

真っ赤な中に ちょっと青みのある花が

 

 

 

 

 

 

マルコ 3章 20~ 35節

 

   ラジオにガザで20年間こどもサポートをしている日本人医師・桑山氏が。喜びも、でも助けられなくて子どもが死んだ悲しみも語っておられました。

 

素晴らしい!

でも、危険地域で息子娘を送っている親御さんの心配は?

 

   イエス様のお家の人、特にお母さんマリアは心配だったでしょう。先週は、パリサイ人とヘロデ党とが手を結び、イエス様を殺そうと相談していました。

今日の箇所でも、律法学者から、悪霊のかしら「ベルゼブルにとりつかれている」と言われます。ひどい言いがかりです。

家族は心配するでしょう。

 

   まず身内の者が取押さえにきます。気が狂ったと思ったからです。さらにお母さんと兄弟たちも来ます。

「帰っておいで。このままやったらえらいことなるよ。

   今まで長男でしんどいこと引き受けてくれてありがとう。

   でも弟も大きくなったし、帰っておいで」。

「そうだよ兄貴。俺らも頑張るからさ」。

 

   でもイエス様。

外で呼んでいるお母さんには会わず、こう言われます。

 

「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。

 

   そして、自分をとりかこんで、

すわっている人々を見まわして

「ごらんなさい、

   ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

   神のみこころを行う者はだれでも、

   わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

 

   これでいいのかなぁ?と思います。母マリアさんは「あ~あ」とため息、弟たちは「兄貴、何やねん」でしょう。

 

「ごらんなさい、

   ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」って、

どんな人たちが集まっていたのでしょうか?

 

   遊女や当時、罪人のレッテルを貼られた人たちが一杯いたでしょう。でも中には「うちの子をそそのかさんといて」と怒鳴り込んできた人もいたでしょう。イエス様の身内やお母さんと兄弟が連れ戻しに来たように。

 

   家族の気持ちもよく分かるかもしれません。

 

   答あわせをしておきますが、

十字架・復活の後、

「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、

   心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」と。

 

   でもこの時点では大変です。

律法学者から、

悪霊のかしら「ベルゼブルにとりつかれている」と言われ

「サタンがサタンを追い出すなんてバカなことありえない」

「もし国や家が、内わで分れ争うなら、立ち行かない」

と反論します。

 

   けれどもそう言われるイエス様の内わはバラバラです。

 

   でも家族と言っても、一人一人、別々の人格を持っています。一致?同じ考え方、同じ生き方はできなくて当然です。

 

   大切なことは、違いを尊重することです。賛成できなくても理解する。もちろん難しいことです。

 

「ごらんなさい、

   ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われた、

イエス様を信じる集まり、教会もそうです。

一つになりましょう?なんて言われても

♪育ってきた環境が違うから すれ違いはしょうがない

 です。

 

   でも神の子イエス様は自分のところに来たのに、

ご自分の人たちから彼を受入れられませんでした。

多くの病に苦しむ人を癒されたのに、

悪霊によって、と悪口を言われました。

身内の者たちにも、気が狂ったと思われました。

 

   イエス様は、

まことに理解されない、受入れられない悲しみを、

その身に背負ってくださいました。

このお方が、私たちの理解されない苦しみも、

愛をもって人を受入れることのできない

いら立ちも知っておられます。

 

   イエス様は

「だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、

   その人の家に押し入って

   家財を奪い取ることはできない。

   縛ってからはじめて、その家を略奪することができる」

と語ります。

 

   そのとおり、主は、悪霊を追い出し、病を癒す

イエス様は悪の力に打ち勝つ権威あるお方です。

 

   けれどもこの後、不思議なことが起こります。

縛り上げる権威を持っておられるお方が、

縛り上げられてしまいます。

十字架で殺されてしまいます。

 

   理解できないかたくなさ、その罪によって

十字架にかけられてしまいます。

 

   けれどもその十字架によって、

罪の赦しを成し遂げられました。

その打たれた傷によって、

平安を与えてくださいました。

 

   罪なく、しかし試練にあわれた主、

まことに弱さを思いやることできるお方、

理解されない悲しみを知るお方が言われます。

「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」

「さあ、私のもとに来なさい」と。

 

   違いを受入れあい、互いに愛し合うことの難しい私たちを、その愛に招いてくださっています。