教会の庭に

 

 

 

ヨハネ 12章  20~ 33節

 

   「栄光」を聖書辞典でひけば

「顕現」「臨在」という言葉が出てきます。

神がまさにここにおられる。

そのことが実感できる時、神の栄光と言います。

 

   たとえばイザヤが神殿で六つの翼を持つセラピムが飛び、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

   万軍の主、その栄光は全地に満つ」と歌っている。

イザヤは「わたしは滅びる」と恐れます。

まさに神の栄光と言えるでしょう。

 

   イエス様が山の上で光り輝かれた。それも栄光という言葉と結びつきます。

 

   けれども今日の箇所はどうでしょうか?

ギリシヤ人が会いに来た。そこで

「人の子が栄光を受ける時がきた」と

イエス様は言われました。

 

どうして?

 

   ところで1月6日が主の顕現日。栄光につながる顕現の日。クリスマスツリーはその日まで飾っています。

 

何の日?

 

   それは三人の博士が訪ねて来る日。

博士と訳されているマギはマジック(魔術)と関係する言葉。新共同訳では、占星術の学者と訳されています。

 

   星占いをしていた彼らが不思議な星に導かれてイエス様に出会う。すると「他の道をとおって自分の国に帰って行った」とありますが、救い主と出逢った新しい人生がそこからスタートしました。

 

   そのように救いがユダヤだけなく、

世界の人々に輝いた日。

それが顕現日。

 

   ですからギリシヤ人が主に会いに来たのは、

まさに栄光の始まりです。

日本の私たちも主イエスキリストの

福音と出会うことになりました。感謝!

 

   8日に神学校の創立時には通訳兼主事として、その後は校長、旧約の教授としてお働きになった鍋谷先生が天に召されました。93歳で召されるまで、教会のために祈り続けておられたそうです。ルーテル教会だけではなく、多くの人々に福音を伝え、多くの方が様々な教会へと遣わされていきました。

 

「人の子が栄光を受ける時がきた」。

 

   ギリシヤ人がイエス様を訪ねてから、福音は宣教師、牧師、支える多くの方々によって私たちも福音を受けました。

 

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。

 

   神の恵みを受けた私たちも、感謝と喜びをもって、十字架と復活の恵みを伝えていきたいと願います。

 

   さらに栄光は、

一粒の麦として死ぬ事によってと主は語られます。

 

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、

   それはただ一粒のままである。

   しかし、もし死んだなら、

   豊かに実を結ぶようになる」。

そして

「イエスはこう言って、

   自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、

   お示しになったのである」

 

   イエス様は、豊かな実を結ぶ

一粒の麦として死んでくださいました。

十字架で死なれたイエス様。

その死によって、私たちの罪が赦されました。

まことに神の子として歩む

永遠の命が与えられました。

 

豊かな実。

それは私たち一人一人のことです。

イエス様を愛し、従い、仕える新しい命です。

 

   死ぬということと栄光。

結びつきません。

病気、死ぬ。

それは負け?

 

いいえ違います。

 

病気になる。必ず死ぬ。

それをわきまえていることは大切です。

 

   でもそれ以上に、死は全ての終わりではない。

その希望に生きることです。

 

♪球根の中には花が秘められ

 さなぎの中から いのちはばたく。

   寒い冬の中 春はめざめる。

   その日、その時を ただ神が知る♪

復活の讃美です。

 

   麦も球根も土に埋められて姿が見えなくなります。

死んだようにも見えます。

けれどもその中にある命が芽を出します。

 

イエス様は復活されました。

 

   一粒の麦イエス様の豊かな実である私たちもそうです。

イエス様と手をつなぎ共に歩む私たち。

死ぬときも一人ではありません。

イエス様と共に死にます。

イエス様と共に、復活の新しいからだ、

新しい命に生まれ変わります。

 

   ある方が今日の聖書の中心は

「わたしのおる所に、

   わたしに仕える者もまた、おる」だと。

「イエス様のいる所にいる」ことが一番大切だと。

 

   神様から見れば私たちは、手をつないでいないと転んでしまう、知らんうちにピャ~とどっかに行ってしまう頼りない存在かもしれません。

 

   でも共におられるイエス様の喜ばれることをしたい。

自然なことです。

 

   幼子のようなイエス様の愛への心からの安心。

感謝と喜び。

「主よどうか私の手足声心をお使いください。

   人を助けるために。訪れるために。

   語り合うために。愛するために。

   どうか私をお使いください」

と祈りつつ歩みます。

 

   新しい命の希望をいただいた者として

イエス様と共に歩んでいきましょう。