教会の庭に
「栄光」を聖書辞典でひけば
「顕現」「臨在」という言葉が出てきます。
神がまさにここにおられる。
そのことが実感できる時、神の栄光と言います。
たとえばイザヤが神殿で六つの翼を持つセラピムが飛び、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
万軍の主、その栄光は全地に満つ」と歌っている。
イザヤは「わたしは滅びる」と恐れます。
まさに神の栄光と言えるでしょう。
イエス様が山の上で光り輝かれた。それも栄光という言葉と結びつきます。
けれども今日の箇所はどうでしょうか?
ギリシヤ人が会いに来た。そこで
「人の子が栄光を受ける時がきた」と
イエス様は言われました。
どうして?
ところで1月6日が主の顕現日。栄光につながる顕現の日。クリスマスツリーはその日まで飾っています。
何の日?
それは三人の博士が訪ねて来る日。
博士と訳されているマギはマジック(魔術)と関係する言葉。新共同訳では、占星術の学者と訳されています。
星占いをしていた彼らが不思議な星に導かれてイエス様に出会う。すると「他の道をとおって自分の国に帰って行った」とありますが、救い主と出逢った新しい人生がそこからスタートしました。
そのように救いがユダヤだけなく、
世界の人々に輝いた日。
それが顕現日。
ですからギリシヤ人が主に会いに来たのは、
まさに栄光の始まりです。
日本の私たちも主イエスキリストの
福音と出会うことになりました。感謝!
8日に神学校の創立時には通訳兼主事として、その後は校長、旧約の教授としてお働きになった鍋谷先生が天に召されました。93歳で召されるまで、教会のために祈り続けておられたそうです。ルーテル教会だけではなく、多くの人々に福音を伝え、多くの方が様々な教会へと遣わされていきました。
「人の子が栄光を受ける時がきた」。
ギリシヤ人がイエス様を訪ねてから、福音は宣教師、牧師、支える多くの方々によって私たちも福音を受けました。
「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。
神の恵みを受けた私たちも、感謝と喜びをもって、十字架と復活の恵みを伝えていきたいと願います。
さらに栄光は、
一粒の麦として死ぬ事によってと主は語られます。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、
豊かに実を結ぶようになる」。
そして
「イエスはこう言って、
自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、
お示しになったのである」
イエス様は、豊かな実を結ぶ
一粒の麦として死んでくださいました。
十字架で死なれたイエス様。
その死によって、私たちの罪が赦されました。
まことに神の子として歩む
永遠の命が与えられました。
豊かな実。
それは私たち一人一人のことです。
イエス様を愛し、従い、仕える新しい命です。
死ぬということと栄光。
結びつきません。
病気、死ぬ。
それは負け?
いいえ違います。
病気になる。必ず死ぬ。
それをわきまえていることは大切です。
でもそれ以上に、死は全ての終わりではない。
その希望に生きることです。
♪球根の中には花が秘められ
さなぎの中から いのちはばたく。
寒い冬の中 春はめざめる。
その日、その時を ただ神が知る♪
復活の讃美です。
麦も球根も土に埋められて姿が見えなくなります。
死んだようにも見えます。
けれどもその中にある命が芽を出します。
イエス様は復活されました。
一粒の麦イエス様の豊かな実である私たちもそうです。
イエス様と手をつなぎ共に歩む私たち。
死ぬときも一人ではありません。
イエス様と共に死にます。
イエス様と共に、復活の新しいからだ、
新しい命に生まれ変わります。
ある方が今日の聖書の中心は
「わたしのおる所に、
わたしに仕える者もまた、おる」だと。
「イエス様のいる所にいる」ことが一番大切だと。
神様から見れば私たちは、手をつないでいないと転んでしまう、知らんうちにピャ~とどっかに行ってしまう頼りない存在かもしれません。
でも共におられるイエス様の喜ばれることをしたい。
自然なことです。
幼子のようなイエス様の愛への心からの安心。
感謝と喜び。
「主よどうか私の手足声心をお使いください。
人を助けるために。訪れるために。
語り合うために。愛するために。
どうか私をお使いください」
と祈りつつ歩みます。
新しい命の希望をいただいた者として
イエス様と共に歩んでいきましょう。