マルコ 8章 31~ 38節
大竹しのぶさんのコラムをまとめた本が出るそうです。
『まあいいか4 ヒビノカテ』。
子供の頃、牧師の家で食事の前に歌っていた歌。それが本のタイトルを考えている時に浮かんで。一日一日何かをもらって生きている。悲しいことも苦しいことも、楽しくうれしいことも、もらって生きている。
イエス様が教えられた祈り
「日毎の糧 毎日のパンを今日与えてください」
と祈っています。
悲しみ苦しみも、主が与えられた日々の糧としていただく。
でもそれは簡単ではありません。
家畜や畑など今まで積み上げたものだけではなく、息子、娘を一時に失ったヨブは
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」と言います。
でもその後
「なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか」
と嘆き叫びます。
苦しみをすんなり受け取れなくて当然です。
「自分を捨て、自分の十字架を負うて、
わたしに従ってきなさい」。
イエス様は、弟子たちに、そして私たちにそう語られます。
今、十字架はアクセサリーにもなります。もう少し重く、罪の意識や苦しみをその身に受け持つという使い方もします。一生この十字架を背負うとか。
でも本来十字架は死刑の道具です。絞首刑やギロチンのように血なまぐさいもの。その十字架を負う、自分自身を殺す、死ぬ。とても重い言葉です。
苦しみ悲しみを神様が与えてくださった糧として感謝して受け取る。それですら難しいのに、さらに十字架を負えなんて!
どうすれば?
イエス様が言われたのはそれだけではありません。
十字架を負いなさいと言われる前には
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、
また殺され、
そして三日の後によみがえるべきことを、
彼らに教えはじめ」。
ペテロはわきへ引き寄せ「ちょっとちょっと」と。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
心配してるんやから!
いくらなんでもそれはないでしょう?
「わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、
わたしのふしどをただよわせ…
目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった」。
自分から十字架を背負いにいかなくても、そんな苦しみが襲うこともあるかもしれません。苦しんでいる時は今しか考えられません。この先どうなるのか?心配で一杯になることがあります。澱んだ空気に息が詰まりそうです。
けれどもあなたは一人ではありません。苦しみ嘆きにおぼれそうなあなたの手をイエス様が取り、聖霊なる神の息で呼吸できるように導かれます。
イエス様は十字架で死なれました。
「自分を捨て、自分の十字架を負うて、
わたしに従ってきなさい」と
言われるだけではありません。
まずイエス様ご自身十字架で尊い血を流されました。
誤解され、馬鹿にされ、鞭打たれ、
あらゆる苦しみをその身に引き受けてくださいました。
その主があなたと共に苦しんでくださっています。
涙を流してくださっています。
さらにこの主は死に打ち勝たれて復活されました。
死を超えた命、
今が全てではない希望へ導かれる主です。
そうでなければ、イエス様を裏切り、知らないと否定し、鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち。その後も、「俺たちが先生を裏切った」と苦しんだでしょう。
けれども主は復活されました。
新しい命。
それは単に死んでからのことではありません。
苦しみの中に閉ざされた心の窓を開け、聖霊なる神の新しい息、風が吹き込まれる命です。
十字架を負う。
日々、この古い私を十字架で殺します。
一人で死ぬのでありません。
イエス様と共に死んで葬られます。
先が見えなくて絶望する私。愛ではなく、憎しみ、怒りに囚われている私。そんな私とイエス様が共に日々、十字架で死んでくださいます。
まだ見ぬ未来に希望を抱き、勇気をもって歩みだすことができる新しい命へと導いてくださいます。
「主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、
墓に下るもののうちから、
わたしを生き返らせてくださいました。
夜もすがら泣きかなしんでも、
朝と共に喜びが来る」。
復活の主イエス様にある希望、
新しい命が豊かにありますように。