教会の隣のお寺から 向こうの丘を

 

 

 

 

マルコ  1章  9~ 15節

 

   洗礼を受けたイエス様は荒野に追いやられサタンの試みにあわれました。

 

   洗礼を受けて、さあこれからなのに、どうしてこんな目に?と思います。

 

   洗礼を受けたから良いことがあるとは言いません。それでは○○を買ったら御利益があると言うのと変わらない気がします。でも洗礼を受けたのに、試練、誘惑がその後続くのは、どこか納得できないような気がします。

 

   確かに

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。

   これによってわたしは

   あなたのおきてを学ぶことができました」

と御言葉は語ります。でも、

♪だけど願う道が閉ざされた時は

 目の前が暗くなりました

も本当です。振り返って、試練が私を鍛えてくれたとは言えても、苦しみの真っ最中にはとても、それは喜ばしいものとは思えません。考える余裕もありません。

 

   けれどもそんな荒野、試みに、御霊がイエス様を追いやりました。

 

荒野。

 

   ギリシア語の辞書には

「人のいない」「寂しい」「荒れた」その他に

「身寄りのない」「孤独な」とあります。

 

   先々週、イエス様が夜の明けるよほど前に起きて

寂しい所へ出て行き、

   そこで祈っておられた」とありました。

その「寂しい所」と「荒野」は同じ言葉。

「寂しい」「身寄りのない」「孤独な」

 

   寂しい、ひとりぼっちで。それは単に周りに人がいないというだけではありません。上手く心を通わせ合うことができないのは寂しいことです。

 

   主は荒野に追いやられました。けれどもその後もイエス様は積極的に荒野、寂しい所へ行かれました。祈るため、そして孤独の人を訪ねるためです。

 

   イエス様は病の人を訪ね、癒されました。その中の多くは病気であるだけではなく、人々から見捨てられていました。たとえば「重い皮膚病」の方は汚れた者とされ、人里離れた所で暮らさざるをえませんでした。イエス様は、そんな荒野、寂しい、見捨てられた一人一人を訪ね、癒されました。

 

   イエス様がそのように誘惑に勝たれた。さらに積極的に苦しい場所に行くことができた。

それは

「あなたはわたしの愛する子、

   わたしの心にかなう者である」、

この天からの声をいつもいつも聞いていたからです。

 

   教会に来る子供。少し前はまだ小さかった。もっと前は祖母の胸に抱かれて泣いていた。大きさもしゃべることも全く違う。でも同じ子だと分かる。憎たらしいことを言い出しても、親、祖父母の愛する子は変わりません。

 

   ましてや、

「あなたはわたしの愛する子、

   わたしの心にかなう者である」、

 

この天からの声、父なる神様の御心は決して変わりません。

 

   イエス様だけではなく、洗礼によって新しく生まれたお一人お一人も、キリストに結ばれた神の愛する子です。たとえどこで何をしたとしても、他の人に見捨てられたとしても、父なる神様は、あなたを愛する子と見てくださっています。

 

   ある本に「一日、全く歌を聴かずに過ごせたら願いを叶えてやろう」と言う悪魔が出てきます。

ありえないことですが、でも悪魔は

「~したら~してやろう」と言います。その逆は

「願いが叶わないのは~だから」です。

それが私たちを追い詰めます。

 

こんな苦しい目にあったのは、

私の何が悪かったのか?

何が足りなかったのか?

もう神は私を見捨ててしまわれたのか?

 

いいえ違います。

 

「あなたはわたしの愛する子、

   わたしの心にかなう者である」。

 

   この約束は決して変わりません。

今も後も永遠にキリストにあって!

何かができてもできなくても、大きな失敗をしても、

あなたは愛する神の子。

 

   年をとって思い通りにならない、今日という日を生きていなかった?その残念さ、心をかきむしりたくなるさびしさ。そうでなくてもがっかりする日はあります。自分が嫌になった。でもそんな寂しい私たちをイエス様は訪ねてくださいました。その大きな御手にこの身をゆだねることができます。

 

荒野、見捨てられた孤独。

 

何よりもイエス様です。

人々から。弟子たちから。

さらに父なる神からです。

 

「わが神、わが神、どうしてわたしを

   お見捨てになったのですか」。

罪のない神の子が罪人として十字架にかかられました。

 

   荒野での誘惑に勝利されたイエス様、

さらに積極的に寂しい所に行き祈り、

孤独にある人を尋ねられたイエス様は、

今も祈るあなたと共におられます。

   恵みを受けた者として、隣人の慰め、癒しを祈っていきたいと願います。