マルコ  1章  14~ 20節

 

   高校の時に通っていた教会で、卒業の時、高校生会で寄書きをしました。洗礼を受けてすぐの女性が、伝道の書から聖句を書いてくださいました。

 

「生まるるに時があり、死ぬるに時があり…

   泣くに時があり、笑うに時があり」

 

   その後に、あっと思い出したように「あの時は上着をありがとうございます」。高校生会でソフトボールをした時でしょうか?秋?それとも初春?いずれにしてもベンチで寒そうに見ているので、上着をかけてあげた気がします。

 

 寄書きの伝道の書は

「神のなさることは皆その時にかなって美しい」

と繋がるのですが、そこまで書かれていなくて

「殺すに時があり、いやすに時があり」と

ひたすら「~に時がある」と続いていたのが

印象に残っています

   すべての事には季節、時がある。でも

「死ぬるに時があり、悲しむに時があり、

   失うに時があり、憎むに時があり」。

その時は良い時ばかりではありません。

「皆その時にかなって美しい」と言われても、

つらい時はつらい。

 

   さらに

「神のなさることは皆その時にかなって美しい」の

後はこうです。

「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

   それでもなお、

   人は神のなさるわざを

   初めから終りまで見きわめることはできない」。

 

   美しいと言われる、神様の時。

 

   でも私たちにとっては、死ぬ時、失う時、悲しむ時。

しかも永遠を思う思いを与えられながら、

実は何も分からない。

死んだらどうなるの?はもちろん、

分からない将来への不安は尽きません。

 

「時は満ちた、神の国は近づいた。

   悔い改めて福音を信ぜよ」。

 

   いよいよイエス様の福音宣教のはじまり。

どんな時でしょうか?

 

   ある人はローマの支配による平和が始まった時と言います。

 

   今、紛争、テロのためスエズ運河を通ることができず、船は大きく喜望峰を回ります。パウロはじめ弟子たちの宣教は、そんな危険なく国々の移動ができました。すべての道はローマに通ず。移動する道も整備されていました。さらに片言の英語で何とかなるように、ブロークン(コイネー)ギリシャ語が共通語。

 

   でも「時が満ちた」を、

聖書はそのようには説明しません。

 

「時が満ちた」。

 

   その時は、「ヨハネが捕えられた」時でした。

この後、ヨハネの首ははねられます。

権力者の暴力が満ちる時、正義の声が黙らされる時、

死の時、悲しみの時です。

でも主は「時が満ちた」と言われます。

 

   それは「悔い改めて福音を信ぜよ」、

福音への招きです。

 

   主は「十字架にかかり、死んで葬られ、よみにくだり」

と告白しています。

 

   よみにまでくだられた。

耐え切れない苦しみをその身に引受られました。

 

   新聞に(毎日 1.14 掃苔記)に淀川キリスト教病院のホスピスの先駆者柏木哲夫先生の「寄り添う」が紹介されていました。

 

   25歳の末期がんの方の

「なんでこんな若うて死なならんのですか」という訴えに

ただ涙。

でも翌朝

「ボクのために泣いてくれた。

   うれしかった。ありがとう」。

 

   よみにくだられたイエス様。

それは共に涙を流してくださるということ。

共にうめき、

あなたのために父なる神様に

とりなし祈っておられることです。

 

「神のなさることは皆その時にかなって美しい」。

 

   それはイエス様にあってです。

先の分からない不安の夜も、

イエス様が共にいてくださいます。

 

   十字架で死に、よみにくだられた主。

けれどもイエス様は復活の主です。

 

   イエス様が、よみがえられた。

私たちの心を縛り付ける死に勝利された。それは、

死んだら終りという不安やあきらめ、絶望が

私たちの人生の最後ではないということです。

 

   主は死によっても滅ぼせない愛で

愛しておられます。

悲しみ、絶望がないのではありません。

絶望はあります。

けれどもなお神の愛に、

十字架と復活のイエス様の愛によって包まれ、

新たに生きていきます。

 

「時は満ちた、神の国は近づいた。

   悔い改めて福音を信ぜよ」。

 

   このイエス様が最初にしたことは漁師たちを弟子とされたことでした。

 

   弟子たちは、一杯失敗しました。

肝心な所で逃げ出しました。

 

   しかしイエス様は彼らを、そして私たちを

友と呼んでくださいます。

「ついてきなさい」と言われたイエス様は

真実な愛をもって

友である私たちの成長を温かく見守り、

今も天の父の右で私たちのために執り成し、

祈ってくださっています。