1964.1.11 泉大津
マルコ 1章 4~ 11節
おめでとうございます。
イエス様の祝福が豊かにありますように。
クリスマスの説教。
謙遜とは、遠慮することではなく、主が与えられたその役割を「この身になりますように」と引き受けること、マリヤのように。
その説教の後、ある方がこう言われました。
「この身になりますように」。
そのように新しい年、新しい役割を引き受けてみようと思います、と。どうかその決心を、主が豊かに祝福してくださいますようにお祈りします。
聖霊なる神様が、まさに御言葉を通して働いてくださったと思います。
イエス様が洗礼をお受けになった時
「天が裂けて、
聖霊がはとのように自分に下って来るのを、
ごらんになった」とあります。
そのようなことは滅多にありません。聖霊がはとのように下ったのを見た方は多くはないでしょう。
でも
♪ 見えぬけれども あるんだよ
見えぬものでも あるんだよ
聖霊なる神様は私共にいて慰めとりなし、御言葉に心を開いてくださいます。
「聖書を説き明してくださったとき、
お互いの心が燃えたではないか」。
主が十字架で死んで絶望し、とぼとぼ重い足をひきずりながら歩く二人の弟子たちに、復活のイエス様が近づき、聖書に心を開かれました。そのように聖霊なる神様が、落ち込む私たちを聖書に開き、心を燃やしてくださいます。
日本で一番気楽な教会。
私たち教会のうたい文句です。
それは落ち込んでも大丈夫。元気でなくても大丈夫。自己嫌悪に落ち込んでも大丈夫。疲れ果てて、立ち上がれなくても大丈夫。
そんな私たちに聖霊なる神様が、聖書の言葉を通して働き、慰め励まし、新しい力をくださることを願う教会です。
誰でも落ち込みます。
がっかりします。
疲れ果てます。
「らくだの毛ごろもを身にまとい、
腰に皮の帯をしめ、
いなごと野蜜とを食物としていた」。
見るからにたくましいヨハネもこの後、落ち込みます。
ガリラヤの領主ヘロデは兄弟の妻ヘロデヤを奪って自分の妻にします。ダメと言ったヨハネは牢に入れられます。妻ヘロデヤはヨハネを恨みます。で結局首を切られてしまいます。サロメで有名ですね。
牢の中のヨハネ。
弟子をイエス様のもとに遣わします。
「『きたるべきかた』はあなたなのですか」。
切実な問いです。
「ほんまにこれで良かったんやろか」。
たくましいヨハネも落ち込みます。
信じていても迷います。
そうです誰でも落ち込みます。
がっかりします。疲れ果てます。
ビックリすることにイエス様も落ち込まれました。落ち込む苦しさを知るお方として私たちのうちに宿られました。ヨハネが死んだ時もそうでした。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」。
十字架を前に言われます。
「目を覚ましていて」と弟子たちに頼みます。一人では耐えられない。でも弟子たちは眠ってしまいます。
「アバ、父よ、
どうかこの杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、
みこころのままになさってください」。
汗を血のように滴らせ必死で祈ります。
罪なきお方が、私たちの罪を背負って、まさに罪人として神の裁き、怒りを受けられました。父に見捨てられる恐ろしさをたった一人で味わい尽くしてくださいました。
神の子イエス様が
私たちは父、子、聖霊の御名によって洗礼を受けます。単に水が汚れを取り除くのではありません。それならば繰り返さなければなりません。
けれどもただ一度です。
洗礼は主イエス様と結ばれ、主と共に罪に死に、主と共に新しい命に生きることです。まことに主は人となられ、罪と徹底的に血を流し戦い勝利されました。
「水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、
聖霊がはとのように自分に下って来るのを、
ごらんになった」。
イエス様だけではなく、
私たちの洗礼の時も、天が裂けます。
私たちと神様の間にある隔ての壁を
イエス様が十字架によって取り除かれたからです。
そして父なる主は私たちに語りかけられます。
「あなたはわたしの愛する子、
わたしの心にかなう者」。
落ち込む時も、疲れ果てた時も、
聖霊なる神様が御言葉を通して語りかけます。
「あなたの罪は赦された。
あなたはわたしの愛する子、
わたしの心にかなう者である」。