ヨハネ 15章  1~ 4節

 

「わたしはまことのぶどうの木」

「わたしにつながっていなさい」。

豊かな実を結ぶと主は言われます。

 

  「つながっている」と言えば、おなかの中の赤ちゃんとお母さんです。お腹の中で既に赤ちゃんの心臓は動いています。赤ちゃんの血が流れています。でも血は混じりません。血液型が違っていても問題はありません。大きくなるための養分だけをへその緒からいただきます。素晴らしい命の仕組みです。

 

  馬の赤ちゃんは生まれてすぐに歩き出します。感動します。カンガルーは2センチくらいの小さな赤ちゃんが、お母さんのお腹をよじ登って、袋の中に入り、そこにあるおっぱいを飲みます。すごい生命力です。

 

  一方、人間は、生まれてすぐには歩けません。歩けないどころか、はいはいすらできません。お乳を飲みたくても、自分の力でおっぱいにたどりつくことができません。泣くことしかできません。誰かにお世話してもらわなければ生きていくことはできません。生まれても、お世話してくれる人(最近は男性も育児を担います)につながっていないと生きていけません。

 

  でも大きくなると、次第に離れていきます。「父と母とを離れて、妻と結び合い、一体となる」。結婚しなくても、親と同居していたとしても、父と母とを離れて、自立した一人の人として生きていきます。それが成長です。

 

  新聞の「女の気持ち」に「子離れの日は?」という投稿。

「日々続く夜中の授乳中から思春期の反抗期まで、あんなに早く子育てから解放されたい…と思っていたのに」。息子が大学に、一人暮らし。憎たらしいことでなく「こんな時に限って楽しかった可愛かった思い出ばかり頭を巡る」。「いい思い出は時に残酷である」と。親と子、いつまでもつながっていることはできません。

 

  親と子ですらそうなのに、イエス様は弟子たちそして私たちに「わたしにつながっていなさい」と言われます。

 

「わたしはまことのぶどうの木」さらに

「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」とさえ言われます。

 

  じゃあ、赤ちゃんのままということでしょうか?いつまでも子供いや赤ちゃん扱いするなと言いたくもなります。

 

  けれども信じること、イエス様と「つながる」ことは、自分の頭で考えること、自由にされることです。見えるものにビクビクせず大胆に!です。

 

  ルター。はっきり「ノー」を言って破門になります。それは当時の教会の権威、教皇と公会議を否定したからです。皇帝の出席する国会に呼ばれます。

「聖書の証言と明白な根拠をもって服せられないかぎり、私は、私が挙げた聖句に服しつづけます。私の良心は神のことばにとらえられています…

私は、教皇も公会議も信じないからです。それらはしばしば誤りを犯し、互いに矛盾していることは明白だからです…

神よ、私を助けたまえ、アーメン」。

 

  まことのぶどうの木イエス様につながる。それは、見えるものに揺るがされず、脅迫におびえず、自分の頭で考えしっかりと自分の足で立つことです。

 

  先週「何々のためなら命捨ててもいい」は危険とお話しました。親分のため、お国のため、さらに神様のためなら命も差し出す。ぞっとします。

 

  イエス様は全く逆です。羊飼いイエス様は、羊のために命を捨ててくださいました。さらに私たちを震え上がらせる病気、死に勝利して復活なさいました。どんな脅しにも揺るがされない命を与えてくださいました。

 

  どうすればいいのか?

「あれをするな、これをするな」息苦しい状況です。

 

  まことのぶどうの木イエス様は、そのような中も、勇気をもって大胆に生きる命を与えてくださいました。それは恐れではなく愛に生きる命です。与えられた自分自身の体、家族、友人はじめ立場を超えて愛します。

 

  ですから予防や感染を拡げないのは当然です。でも、病気になっても負けではありません。死ぬことも負けではありません。だから誰かを、もちろん自分自身を責めたりしません。「こんなことしなかったら」と後悔するあなたのためにも、責めてしまうその人のためにもイエス様は十字架で死に、復活してくださいました。不安や恐れの中も、積極的に今を生きていきます。既に世に勝っているイエス様が今日も明日も、永遠に共にいてくださいます。