劇団四季『マンマ・ミーア!』フィナーレ③(恋のウォータールー) | 東山凛太朗のブログ

多分、今、都民全員に検査をしたら100万人は患者が出ると思います。肝心なのは「重症患者」と「お亡くなりになった人の数」です。それを毎日毎日コロナが何人超えたとか。メディアの言うことは参考程度にとどめましょうね。

大事なのは「自分がマナーを守る」こと。劇団四季の演目を観に行く人が一人一人そうすれば「中止」はなくなります。

我々のマナー如何で『マンマ・ミーア!』も続けられるか、終わりになるかが決まります。

仕方ないですよ。しばらくは「緊張」して過ごし、『マンマ・ミーア!』を楽しみましょう。

 

今日は「フィナーレの最後」(恋のウォータールー)です。

周知の通り、ABBAは1974年4月6日、イギリス・ブライトンで行なわれてた『ユーロビジョン・ソング・コンテスト』決勝でこの「恋のウォータールー」を披露し、見事に「グランプリ」(優勝)を獲得しました。

『世界デビュー』したわけです。

4月6日は筆者とユニバーサルミュージックジャパンが話し合い「日本の正式な記念日」である“ABBAの日”となりました。

ミュージカル『マンマ・ミーア!」は1999年4月6日、ABBA世界デビュー25周年にあたる日にロンドンで開演しました。

本来はこの「恋のウォータールー」も劇中に入る予定でしたが、うまく脚本とかみ合わず外されることとなりました。

しかし「恋のウォータールー」がなければ今のABBAもなく、『マンマ・ミーア!』も上演されませんでした。

そこで「フィナーレの最後」に「恋のウォータールー」でABBAへのオマージュを現すことにしたのです。

しかも俳優は「英語」で「恋のウォータールー」を歌いますよね?

当初、故浅利慶太先生から筆者は相談されたことがあります。「日本は非英語圏で『マンマ・ミーア!』を最初に上演する国。英語圏ではわざわざ翻訳する必要はないが、東山君ならばこの『恋のウォータールー』をどう扱うか?」

僕は答えました。「そのまま英語でいいんじゃないでしょうか?」

浅利先生は「こういうことはABBAファンに尋ねないとなあ」とおっしゃっていました。

このような理由で「最後」の「恋のウォータールー」だけは「全部英語」で歌うことになったのです。

僕はこの「恋のウォータールー」を中学1年の時「5分」で覚えました。

是非、皆さんも「歌詞を暗記」して一緒に歌い“ABBA”になりきりましょう!

 

☆「恋のウォータールー・『MAMMAMIA!』世界共通版・歌詞」☆

My, my, at Waterloo Napoleon did surrender

マイ・マイ・アト・ウォータールー・ナポレオン・ディド・サレンダー

oh yeah, and I have met my destiny

オー・イエー・アンド・アイ・ハヴ・メット・マイ・ディスティニィ

in quite a similar way

イン・クワイト・ア・シミラー・ウエイ

the history-book on the shelf

ザ・ヒストリーブック・オン・ザ・シェルフ

is always repeating itself

イズ・オールウェイズ・リピーティング・イットセルフ

Waterloo – I was defeated, you won the war

ウォータールー・アイ・ワズ・ディフィード・ユウ・ワン・ザ・ワー

Waterloo – promise to love you forever more

ウォータールー・プロミス・トゥ・ラヴ・ユウ・フォーエバー・モア

Waterloo – couldn’t escape if I wanted to

ウォータールー・クドント・エスケイプ・イフ・アイ・ワンテッド・トゥ

Waterloo – knowing my fate is to be with you

ウォータールー・ノウイング・マイ・フェイト・イズ・トゥ・ビー・ウィズ・ユウ

Wa-wa-wa-wa-Waterloo – finally facing my Waterloo

ワワワワ・ウォーラールー・ファイナリィ・フェイシング・マイ・ウォータールー

So how could I ever refuse I feel like I win when I lose

ソウ・ハウ・クッド・アイ・エヴァ・リフューズ・アイ・フィル・ライク・アイ・ウィン・ホエン・アイ・ルーズ

Waterloo – I was defeated, you won the war

ウォータールー・アイ・ワズ・ディフィード・ユウ・ワン・ザ・ワー

Waterloo – promise to love you forever more

ウォータールー・プロミス・トゥ・ラヴ・ユウ・フォーエバー・モア

Waterloo – couldn’t escape if I wanted to

ウォータールー・クドント・エスケイプ・イフ・アイ・ワンテッド・トゥ

Waterloo – knowing my fate is to be with you

ウォータールー・ノウイング・マイ・フェイト・イズ・トゥ・ビー・ウィズ・ユウ

Wa-wa-wa-wa-Waterloo – finally facing my Waterloo

ワワワワ・ウォーラールー・ファイナリィ・フェイシング・マイ・ウォータールー

Waterloo – finally facing my Waterloo

ファイナリィ・フェイシング・マイ・ウォータールー

 

 

*上は『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』スウェーデン大会(優勝しスウェーデン代表に!)

*上は1974年4月6日『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』最初のパフォーマンスシーン(BBCの記者がABBAを紹介するときビヨルンのことを『ボン』と紹介している。

*上は『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』ABBA優勝後のパフォーマンス。

 

★キャラクター

◆ドナ・シェリダン
本作の主人公。シングルマザー。一人娘のソフィを育てながら、ギリシャのエーゲ海に浮かぶ小さな島で「サマー・ナイト・シティ・タヴェルナ」という島唯一のホテルを女手一つで切り盛りする。かつては、「ドナ&ザ・ダイナモス」という人気ロックバンドのリードヴォーカルとして多くの男性を虜にした。

◆ソフィ・シェリダン
20歳になるドナの一人娘。母を手伝いながら、島を訪れたスカイという若者と婚約、結婚式を挙げようとしている。素直で明るい性格。父親不在の環境で育ったこともあり、人一倍幸せな家庭への願望が強い。結婚式に父を呼ぼうと画策したことが、ドラマの発端となる。

◆ターニャ
ドナの旧友で、「ドナ&ザ・ダイナモス」のメンバー。スタイル抜群でお金が大好き。色香を武器に、資産家と結婚しては離婚を繰り返すという奔放な女性だが、ドナとロージーとの女の友情には厚い一面も。

◆ロージー
ターニャと同じく、「ドナ&ザ・ダイナモス」のメンバー。ターニャとは対照的に派手で女性的なアピールを好まず、「結婚なんてする気がしれない」と独身を貫く。だが、内面では、理想の男性を待ち続ける女性らしいチャーミングさも併せ持つ。

◆サム・カーマイケル
建築士で、「サマー・ナイト・シティ・タヴェルナ」を建設した男性。かつて島を訪れドナと恋に落ちるが、帰国とともに二人の物語は終わりを告げた。現在は、二児の父。

◆ハリー・ブライト
ロンドンのエリート銀行員で、パリに留学中にドナと知り合い恋に落ちる。文化的生活を好み、歌を愛する。既婚だが子どもはいない。

◆ビル・オースティン
作家。旅の途中に立ち寄った島で、ドナと出会う。世界中を旅する渡り鳥のような生活のため、結婚という選択肢を意図的に避けている。

◆スカイ
証券取引所で働いていたビジネスマンだったが、都会での生活に疲れ、エーゲ海の小島へとやってきた青年。ソフィと恋仲になり、結婚することになる。ソフィを深く愛しており、若者らしく生真面目で潔癖な結婚観の持ち主。
*イラスト提供:劇団四季

 

★なおチケットは

8月23日日曜日公演分まで発売されております。是非チケットをゲットして会場でお会いしましょう!

https://www.shiki.jp/stage_schedule/?aj=0&rid=0050&ggc=0918#202007

 

★KAAT神奈川へのアクセスは以下のとおりです。

https://www.shiki.jp/theatres/0918/

 

 

 

「恋のウォータールー」(筆者訳)

そうよ ナポレオンはウォータールーで降伏したのよ

そう 全く同じ風に

私も自分の運命に直面したの

本棚に置いてある歴史の本に書いてあることなんて

いつだって繰り返し起こっているのよ

 

*ウォータールー 私の負けだわ

ウォータールー これからも永遠にあなたを愛すと約束するわ

ウォータールー 逃げたくても逃げられなかったの

ウォータールー 私の運命はあなたと一緒になること

ええそうよ ウォータールー

とうとう私のウォータールーに直面してしまったわ

 

ウソじゃないわ 私、あなたを引きとめようとしたわ

だけどあなたの方が強かっただけ

そうね 今の私にたった一つ残されたチャンスは

負けを認めることしかないわ

よく今まで拒むことができたと思う

私ったら負けたっていうのに勝った気分でいるの

 

*くり返し

 

よく今まで拒むことができたと思う

私ったら負けたっていうのに勝った気分でいるのよ

ウォータールー 逃げられないのよ どんなに逃げたくとも

ウォータールー 私の運命はあなたと一緒になること

ええそうよ ウォータールー

とうとう私のウォータールーに直面してしまったわ

ウォータールー 私の運命はあなたと一緒になること

ああそうよ ウォータールー

とうとう私のウォータールーに直面してしまったわ

 

 

第一話  恋のウォータールー

一九七四年四月六日、イギリス・ブライトン『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』決勝日。ナポレオンの恰好にキラキラした衣装、厚底のヒールを履いたファンキーな男女四人組が壇上に居た。そして、イギリスの賭け師や誰もが予想しなかった事態が起こった。そう、スウェーデンからやってきたこの四人組が歌った「恋のウォータールー」が見事にグランプリに輝き、めでたく〝世界・デビュー〟を果たしたのだ。そのグループこそABBAだった。

一九七四年の『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト本戦』。大方の予想では、イギリス代表のオリビア・ニュートン=ジョンが優勝の最有力候補だった。誰一人、ABBAが優勝するとは思ってもいなかった。評論家の予想でも圧倒的に、地元イギリス出身のオリビア、あるいは、オランダ出身の男女マウス&マクニールを優勝候補に挙げていた。だが、いざ蓋を開けてみると、結果は僅差どころかABBAの圧勝!欲もなく、ただただ音楽を愛し、それを世界に発表したいとだけ願っていたABBAは審査員達の度肝を抜いたわけだ。もちろん彼女達は英語圏人ではない。まだタドタドしい英語で歌う姿は、それ以後のABBAからは想像できないほど、初々しい姿そのものだった。
誰でも初めはそうなのだろう。最初から有名になる人なんていない。誰もが見てないところで努力し、どんなに失敗しても続けて行こうとする意志。それが兼ね備わった時、神様はご褒美を下さるのだ。

 

こうして、一躍国際舞台に踊り出たABBAだったが、誰もが口を揃えて言うのだ。「所詮、ABBAもユーロヴィジョンの宿命には勝てないさ」。ユーロヴィジョンの宿命って何なのだろうか?当時「ユーロヴィジョン優勝者は一発屋で終わる」というのが、俗説として定着していた。というのは、過去、殆んどのユーロヴィジョン優勝者は一発屋に終わっていたからだ。例えば、『ジリオラ・チンクエッティ』(イタリア、一九六四年優勝)、『フランスギャル』(ルクセンブルク、一九六五年優勝)、『ヴィッキー・レアンドロス』(ルクセンブルク、一九七二年優勝)など。自国では多くのヒットを放ったものの、世界を相手にした〝国際舞台でのヒット〟となると、ユーロヴィジョン優勝者は未だ一人も現れていなかった。その為、ユーロヴィジョンを足掛かりに世界へ!等と思っていた歌手は存在せず、『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』は当時の若いリスナーや音楽評論家には嘲笑の的だった。「ユーロヴィジョンで優勝することなんて、わざわざ、世界の笑いものになるだけじゃないか!」そこまで考えていた歌手も少なくなかったようだ。自分の経歴に〝汚名〟が付く……。一九七四年当時は、まだ冷戦真っ只中の時代で、社会主義的傾向が強かったヨーロッパの人々にとっては、ユーロヴィジョンは笑いの的にすぎなかった。むろん、ABBAもユーロヴィジョンの優勝者と言うだけで、笑いの種になったこともあり、東西冷戦が終わった二十一世紀の現代から振り返ると実にお粗末な風潮だったと言わざるを得ない。だがヨーロッパの最北に位置するスウェーデン出身のABBAにとっては、国際舞台で成功する為には、これこそが唯一の登竜門だと考えていた。言い換えれば、ユーロヴィジョンしか自分たちを売り込む方法はなかったわけだ。

 

もともと欧州ではイタリアで行なわれていた『サンレモ音楽祭』が有名で、世界の歌手の憧れの音楽祭でもあった。日本からも伊東ゆかり、岸洋子がゲスト出演し、一躍話題になった。サンレモで優勝した楽曲は世界各地でカバーされ、イタリア音楽会に多大なる恩恵をもたらした。第二次大戦で敗戦国となったイタリアに活気をもたらしたと言っても過言ではないだろう。

 

第二次大戦の戦勝国側は、こうした〝敗戦国〟の音楽祭を黙ってみているわけにはいかなかった。一九五〇年に設立された『欧州放送連合』は、西側(ソ連邦を中心とした社会主義諸国を東側と呼んでいたのに対して、アメリカ・イギリスを中心とした民主主義諸国は西側と呼ばれていた)諸国の連帯感を強める為に、この『サンレモ音楽祭』を遥かにしのぐ壮大な音楽イベントの企画をもくろんでいた。そして誕生したのが『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』だった。『サンレモ音楽祭』に遅れること五年後の一九五六年五月二十四日に第一回目のコンテストが催され、たちまち〝ヨーロッパで最大の音楽コンテスト〟へと成長していった。欧州放送連合加盟各国から代表アーティストが一組ずつ出場し、審査員の投票結果によって順位が決定するのだ。コンテストの模様は加盟各国に生中継でテレビ放送され、世界で最も視聴者数の多い番組となっていった。

 

今ではヨーロッパ出身のアーティストが世界的に活躍することも珍しくない。しかしABBAが活動を始めた一九七〇年代当時は英語圏以外の国のアーティストがイギリスやアメリカで成功を収めることは、まず不可能だった。今でもスウェーデンが欧州にあることを知らない人がいる。七〇年代当初は今よりもさらに状況は悪く、ABBAのマネージャー『スティッグ・アンダーソン』がイギリスやアメリカのレコード会社へ積極的にABBAのレコードの売り込みをかけたが、「どこから来たの?えっ?スウェーデン?それって、どこにあるの」とスウェーデン出身というだけで門前払いを食らったことも多々あったと後日、スティッグは回想している。

 

『ハリーポッター』もそうだ。作者は日本で言うところの生活保護を受けながら、乳呑児を抱え、一日中、ホテルでコーヒー一杯だけ注文し、この力作を書きあげた。最初にラッキーだったのが、このホテルのオーナー、あるいは喫茶コーナーの店長との出会いだ。太っ腹というか、コーヒー一杯で粘る彼女に文句一つ言わず、開店から閉店まで居させてあげた。もしかしたら彼女に何かしらのオーラを見たのかもしれない。とは言っても、名もない彼女の本など、どこの出版社を回っても門前払い。しかし神は見捨てなかった。彼女の才能を見出した出版社と運命的な出会いをし、結果は言わずもがなだ。〝奇跡〟と言ってしまえばそれまでだが、最後は彼女の熱意と前向きな姿勢が〝奇跡〟を『運命』に変えたのかもしれない。

 

ABBAも当時は酷い仕打ちを受けていた。ABBAはまだABBAと名乗る前に『ビヨルン&ベニー、アグネタ&アンニ=フリード』と二年間ほど語っていた時期があり、何を思ったか、アメリカでは『ビヨルン&ベニー・ウィズ・スヴェンスカ・フリッカ』としてレコードが売られていた。『スヴェンスカ・フリッカ』とは、『スウェーデンの娘たち』という意味だ。七〇年代前半と言えば「スウェーデンはフリーセックスの国」と勘違いされた時代。筆者のクラスでもよくマセタ連中が「スウェーデン行きてぇ」と吠えていた。無知とは恐ろしいモノだ。ただこのアメリカのレコード会社がなぜこのように語ったのかは実は〝オチ〟がある。発売元は『プレイボーイレコード』だった。どうりでHな名前の付け方になったわけだ。

 

第二話「ABBA」

ABBAはもともと〝実験的〟に作られたグループだった。そもそも所属レコード会社が違う四人が集結したわけだから、永続的な成功を希望するはずもなかった。多くの専門家はこの事実を知ってか知らないか、過去、現在に於いて、好き放題、ABBAをけなし続けて来た。「二組のカップルはレコード会社が意図的に恋人に仕立てたんだよ」「人工的なカップルだからこそ、二組とも離婚したんだよ」。有名な専門家がNHKで堂々と語った時にはさすがに唖然としたが、このような専門家の憶測、もっと端的に言えば「勉強不足」が長い間、国内に流れていた。実に残念でならない。ABBAが日本でその存在を正確に知られてこなかった最大の理由は、まさに“専門家の怠慢”であったと言っても過言ではない。プレスリーやビートルズは英語圏なので海外で書いた伝記モノが訳しやすかったと自己弁護しているが、ABBAの伝記モノも殆ど英語で書かれたものであり、専門家が言っているようなスウェーデン語表記は、筆者も長い間ABBAファンをやっているが滅多に見かけたことはない。政治家も専門家も「間違ったら謝る」勇気を是非持ってほしいモノだ。

 

さて、ABBAは、一九七四年四月六日、イギリス・ブライトンで開催された『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』で「恋のウォータールー」を披露し、見事に優勝した。この波は欧州全土を覆い、イギリスやドイツ、ベルギー、アイルランド、ノルウェイ、スイスを始め世界九ヶ国で一位を記録する爆発的な大ヒットとなった。特に注目すべき点はアメリカでヒット・チャート六位になったことだろう。アメリカでユーロヴィジョン優勝者の曲がヒットするのは〝史上初〟だったが、実はこの快挙にはABBAとそのマネージャー・スティッグ・アンダーソンの努力の賜物であることを述べなければならない。

 

冒頭にも書いた通り、当時、ABBAのメンバーは別々の活動をしていた。全員〝プロ〟で個々に活躍していたのだ。ABBA作詞担当のビヨルンはスウェーデンのフォーク・グループ『フーテナニー・シンガーズ』のリーダーだったし、ABBA作曲担当のベニーは〝スウェーデンのビートルズ〟と異名をとっていたロック・グループ『ヘップ・スターズ』のキーボード担当だった。今もそうかもしれないが、昔は、自分たちが作った歌を聴いてもらう為に「ドサ周り」するのが当たり前の時代。テレビに出てチヤホヤされるアーティストは稀であり、ドサ周りしていた連中もいつかは〝メジャー〟になるべく、あちこちを転々としていた。ビヨルンもベニーもご多分に漏れず、あちこちでコンサートを開き、よく、行く先々の会場で「やあ、また会ったね」など、再会を繰り返していた。そのうちに『類は友を呼ぶ』とでも言うのだろうか?ビヨルンとベニーは自分たちが目指している音楽の方向が同じであることで意気投合し、グループを脱退。『ビヨルン&ベニー』として再出発することになった。彼らの才能に目を付けたのが、後のABBAのマネージャーのスティッグ・アンダーソンだった。ビヨルンがスティッグ経営のポーラー・レコードに誘われるとビヨルンは「ベニーも一緒に入社するならいいよ」と言う条件出し〝二人で〟ポーラー・ミュージックに入社。ここに『世界最強の作詞・作曲コンビ』が誕生したのだ。他方、ABBAのメンバーで、男性なら誰でも一度は憧れたブロンドヘアーのアグネタは、日本で言えば安室奈美恵、あるいは(故)本田美奈子的存在で、スウェーデン歌謡界を席巻していた。ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』ではマリア役を演じ、人気は鰻登りだった。もう一人の女性フリーダはスウェーデンジャズ界の歌姫で、重低音の魅惑は、国内はおろか国外でも定評があった。そんな著名な四名がどうしてABBAとなって、世界へ羽ばたいていけたのだろうか?そこには〝奇跡〟としか言いようがない〝出会い〟があったからに他ならない。

 

ビヨルンはたまたま、あるテレビ番組に出演した。その時、一緒に出演したアグネタと会うなり意気投合。二人はイッキに婚約、結婚へと進んだ。同時期、ベニーはフリーダと出会い、恋に落ちる。そんなある日、お互いの彼女を紹介しようと言うことになり、ビヨルンはアグネタを、ベニーはフリーダを連れて、初めて四人で会ったのが『ABBAの原型』となった。当時この中で最も人気が高かったのはビヨルン。実はアグネタもビヨルンの熱狂的ファンの一人だった。ABBA八枚の『オリジナル・アルバム』の中で、初期にビヨルンのヴォーカルが多いのはこうしたことに起因している。

 

四人は、よくギター片手にピクニックに出かけていた。そこで自由奔放に歌を歌い、楽しんでいた。ある時、ビヨルンがアグネタとフリーダに「ちょっと二人だけでデュエットしてみてよ」と何気なく言ったことが後のABBAの体制を構築することになるとは、その時、四人のうち、誰一人思っていなかった。だが実際に二人の女性が歌ってみると、なんという素晴らしいハーモニーだろうか!ビヨルンは頭のてっぺんからお尻まで稲妻が走り、自分がリード・ヴォーカルで歌っていたことが恥ずかしくなったと後日語っている。こうしてABBAはアグネタ・フリーダをTWO-TOPにしたミュージシャンへと徐々に変貌しくことになる。
前述したが四人は別々のレコード会社に所属していた為、当初はきちんとしたグループ名はなく適当に『ビヨルン&ベニー、アグネタ&アンニ=フリード』とクレジットされていたが、この長ったらしい名称はまるで〝寿限無〟の如く、司会者・記者泣かせの名前だった。そこで、マネージャーのスティッグは四人の頭文字をとりABBAとした。特に四人からの反対もなく「それでいいんじゃない」的な感じでABBAと呼ばれるようになった。正確には「短縮」されることになったわけだ。ちなみに最初のAはアグネタのA、次のBはビヨルンのB、その次のBはベニーのB、そして最後のAはアンニ=フリードのAだ。どのように組み合わせてもよかったもののABBAとなったのは偶然の産物だ。AとBを並べるだけならば、例えばBABA、BAABなどでもよかったはずだ。それがABBAとなったのは、このグループ名を考えたスティッグを称賛するしかない。だが〝ABBA〟は既にスウェーデンに存在していたと聞いたら、あなたはどう思われるだろうか?実は魚加工会社で『Abba』という会社が実際に存在していたのだ。スティッグはこの魚会社に同じ名称を使ってもよいか尋ねたが、特に反対もなく「いいですよ」とだけ返事をもらった。実に不思議な決め方でABBAの名称は決まったわけだ。ちなみにABBAという名称を積極的かつ正式に使い始めたのは一九七四年『ユーロヴィジョン』に参加した時からだ。

 

ABBAはこの『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』にトライしたのは一九七四年が初めてではなかった。前年一九七三年「リング・リング」でユーロヴィジョン本戦出場を目指したABBAだったが、スウェーデン国内予選の結果は三位となってしまい、「本選」に駒を進めることはできなかった。だが、この「リング・リング」は英語版・スウェーデン語版のシングル、そしてアルバムと全て爆発的なヒットとなり、スウェーデン国外でも一部地域で大きな成功を収めた。これに自信を付けたビヨルンとベニー、そしてマネージャーのスティッグは、早くも一九七四年のユーロヴィジョンへと照準を合わせ始めていた。恥をかいたのは「ユーロヴィジョン・スウェーデン審査員達」だ。自分たちが落としたグループの曲が国内外で大ヒット。これがスウェーデン音楽界の重鎮達の逆鱗に触れ、翌年から審査員はガラリと変わり、ABBAにとっては〝喜びの誤算〟となったわけだ。

 

もともと試験的なプロジェクトとしてスタートしたABBAだが、本格的なグループとして活動するようになったのは、この頃からだ。それまでは、フリーダとアグネタはソロ歌手としての活躍がメインだったし、ベニーとビヨルンはポーラー・レコード所属アーティストの作曲・プロデュース業務に忙しい日々を送っていた。しかし、この「リング・リング」の成功がグループとしての可能性を裏付けることとなり、四人の心に〝新たな野心〟が芽生え始めた。目指すは『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』本選出場!世界進出を目指す彼らにとって、ユーロヴィョンは非常に大きな意味を持ってきたのだ。

 

一九七四年『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』。実は最後までエントリー曲を決めかねていた。というのは、これまでユーロヴィジョンに優勝した曲は、女性ヴォーカリストによる甘いバラードばかりだったからだ。順当に選ぶならば、アグネタがリード・ヴォーカルを務めるセンチメンタルなバラード「落葉のメロディ」が最も適していた。最大公約数的に考え、多くの国の幅広い年齢層に支持されなくてはいけない、というのが優勝のキーとされてきた為に、ユーロヴィジョンでは、過激なロックは、それに逆行するものと認識されていた。「そもそもロックは保守的なリスナーには支持されるはずがない」と言う〝大きな誤解〟が当時は当たり前のように存在していた。

 

前述したが、過去の『ユーロヴィジョン優勝者』は皆〝一発や〟と揶揄され、国際舞台で評価されることはなかった。その割には、当時のヨーロッパでは不思議な現象が起こっていた。ユーロヴィジョンで優勝を逃した楽曲が各国のヒット・チャート上位に食い込むという現象だった。「別に優勝しなくてもいいじゃない。大事なのは、人々の印象に残る楽曲を演奏すること。せっかく世界の桧舞台で演奏するのだから、自分たちが誇りに思えるような作品を演奏したほうが良いに決まっている」。そう考えたビヨルンとベニー、スティッグの三人は、締め切り最終日に「恋のウォータールー」をユーロヴィジョン出場(エントリー)曲として選んだ。

 

第三話「スティッグとウォータールー」

『ユーロヴィジョン』で優勝した一九七四年までにABBAは既にアルバム『リング・リング』を出しており、国内では大ヒットだった。その後、一九七四年のユーロヴィジョンに向けて「恋のウォータールー」のシングル盤作成と同時にアルバム製作にも入り始めた。アルバムのレコーディングは一九七三年九月二十四日~一九七四年二月二十日まで行なわれた。ユーロヴィジョンのスウェーデン国内予選は一九七四年二月九日。審査員が変わったことも大きく影響し、ABBAは見事にスウェーデン大会で優勝。四月六日の『ユーロヴィビジョン本大会』出場が決定した。すぐさまマネージャーのスティッグは営業活動を始めた。大会の当日までに「恋のウォータールー」のシングルをヨーロッパ中のレコード店に並べたかったからだ。過去のユーロヴィジョン出場アーティストは本大会の結果次第でレコードを発売するのが通例だったが、スティッグはそれでは遅すぎると考えていた。テレビで生中継を観たヨーロッパ中の人々が、翌日、レコード店に行ってみると、そこには「恋のウォータールー」が並んでいる……。壮大な〝夢〟だが、スティッグには自信があった。それは前年の「リング・リング」の、まさかの国内予選三位から学んだものだった。ABBAの成功はこうした偉大なマネージャー『スティッグ・アンダーソン』なくして、ありえなかったかもしれない。彼こそ『マネージャーの鏡』と言っても過言ではないだろう。

スティッグにとっては二度目の欧州営業活動。前年の「リング・リング」での失敗が功を奏し、各国のレコード会社はシングル発売とプロモーション・キャンペーンに向けて迅速に動くことが出来た。〝失敗は成功のもと〟とは、まさにこのことを言うのだろう。前年の「リング・リング」のユーロヴィジョン本選落選は、結果として「恋のウォータールー」のプロモーション準備に十分な時間的余裕を与えてくれた

 

「恋のウォータールー」はポップスであることは間違いないが、ABBAの各メンバーが煌びやかな衣装を着て、派手派手しく演奏する光景は明らかに『グラム・ロック』スタイルだ。

 

『グラム・ロック』とは、一概には言えないが、男性でも濃い(時には装飾的なメイクを施し、煌びやかで(けばけばしい)、古い映画やSFをモデルにしたような、懐古趣味的な衣装をまとうのが特徴だ。キャンプ 的であるともいわれている。また宇宙趣味、未来趣味も混在している。そういう意味で、KISSや聖飢魔Ⅱのような、露骨なパンク・ロックとは一線を画している。

主に男性的な力強さや激しさを表現するハードロックや、演奏技術や楽曲の構成力を強調していたプログレッシブ・ロックが主流だった七〇年代において、それらとは異なった

 

〝中性的なファッション〟や振る舞いを施し、単純で原始的なビートやキャッチーなサウンドをみせていたのが『グラム・ロック』のミュージシャンたちだった(この傾向が、後のパンク・ロックの出現に大きく影響することになる)。また、サックスでリフを刻むことが多いことも、グラムの特徴の一つだ。

ただ、ジャンルとしてはルックスやステージングなどの面で区別されることが多いため、サウンドや楽曲の作風、音楽的志向などは、かなり異なり、大きな共通性はない。このような経緯から、クイーンも登場当初は『グラム・ロック』バンドと見る者もいた

 

恐らく、ユーロヴィジョン初である『グラム・ロック』の「恋のウォータールー」は、前例がなかったからこそ、ロック色の濃かったアメリカでも十分評価されたのだろう。もともとアメリカでは『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』の存在そのものが知られていなかった。この「恋のウォータールー」は、全英ナンバー・ワンが強力な後押しになったのも事実だが、一番の強みは、楽曲そのものの魅力だったと言える。「本当に良い音楽は国境を越える事が出来る」というビヨルンとベニーの〝信念〟が証明された瞬間だった。この「恋のウォータールー」以降、全米でのABBAのライセンスを獲得したのは、R&Bの老舗としても知られるメジャー・レーベル『アトランティック』となった。もう『プレイボーイレコード』とはオサラバしたわけだ。
〝ブッチャー〟で有名なアメリカの評論家連中。自分たちが気に食わない音楽やミュージカルはコテンパンにやっつけてしまう、物凄い権力の人間達だ。しかし、どうしたことだろうか?このアメリカの批評家が軒並みアルバム『恋のウォータールー』を絶賛したのだ。特に『ローリング・ストーン誌』の評論家ケン・バーンズは「ABBAの登場は最近の音楽界で最も喜ぶべき出来事の一つと言えるだろう。彼らの簡潔でアップビートなポップ作品は、テクニックをひけらかす自己陶酔型のギタリストや、群衆に宇宙力学的啓蒙を与える信仰深い音楽集団のいかなる楽曲よりも、遥かにロックン・ロールの本質的な精神に近いものと言える」とABBAを大絶賛している。

 

音楽は〝音を楽しむ〟と書く。確かにこれは日本語だが、大よそ、全世界で共通した認識なのが「音楽」だろう。第二次世界大戦後、音楽の中心はイギリスからアメリカに移りつつあったが、ジャンルの違う音楽が出るたびに、人々は熱狂し、魅了し、その時代をも席巻して行った。エルビス・プレスリーしかり、ビートルズしかり、だ。単純に喜べることこそ、音楽の醍醐味なのだ。だが、六〇年代後半からのフォークやサイケデリックのムーブメントによって〝理論〟が先行するようになってしまい、音楽は「頭で考える難解なもの」になっていた。音楽は戦争あるいは世の中を批評する道具と化してしまったのだ。社会的・政治的なメッセージのない音楽は価値がないと言われるようになり、単純明快なポップスが見下されるようになった。音楽は本当にこのままでよいのか?日常生活とは懸け離れた位置に置かれた難解で退屈な音楽に飽き飽きしていた当時のアメリカ人にとって、ABBAの音楽は〝新鮮な驚き〟であったに違いない。「そう、これこそ本当の音楽なんだよ」。プレスリー、ビートルズに続く、音楽グループがアメリカに認知されたのだ。しかし、次々に登場するアメリカの音楽界。ABBAがアメリカで完全に成功したと言うには、まだまだ時間を要した。アメリカでの「恋のウォータールー」のヒットは、最初の入り口、序の口に入ったに過ぎなかった。

 

この頃のABBAはまだアグネタ・フリーダがTWO-TOPで歌う形が確立されておらず、最初のアルバム『リング・リング』、二枚目のアルバム『恋のウォータールー』では、男女の掛け合い、あるいは、ビヨルンのヴォーカルが際立っている。グループとして成功することよりも、いかにしたら、世界へ飛び立てるのか?それを考えるだけで精一杯だったのだ。暗中模索していた時期だ。またABBAはスウェーデン人だ。我々日本人同様、英語を母国語としない。ゆえに、このまま世界でヒットを出し続ける為には英語で歌詞を書き続けなければならなかった。マネージャーのスティッグ・アンダーソンが、もと英語教師で、作詞にも明るかったこともあり、当初は、スティッグ、ビヨルン、ベニーで作られた楽曲が目立つ。それもやがては、ビヨルンの努力により、ビヨルン作詞の楽曲で、世界に勝負をかけることができるようになった。

 

この「恋のウォータールー」はグラム・ロック・サウンドを意識しつつも、六〇年代初頭の、良きアメリカン・ポップスにも通じる爽やかな魅力を持った作品だ。頻繁に質問されるのが「ウォータールー」の意味。イギリスに「ウォータールー駅」があるが、その駅のことを言っているのか?それとも、一九四〇年、ビビアン・リー、ロバート・テーラー主演映画『哀愁』(原題は「ウォータールー・ブリッジ」)のことを言っているのか?多くの人々が間違う。二〇〇八年映画『MAMMAMIA!』 が世界で上映され、二〇〇九年1月から日本でも日本語字幕版が上映された。この時、配給会社と広告会社は当初、字幕に「ワーテルロー」と書いた。そう、この「恋のウォータールー」の〝ウォータールー〟とは、ベルギー中部にある都市ワーテルローのことを英語読みにしただけなのだ。ワーテルローとは、一八一五年六月十八日にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオンⅠ世率いるフランス軍を破った戦いの場所だ〝ナポレオン最後の戦い〟として知られている。英語での発音はウォータールー、ドイツではラ・ベル・アリアンスの戦いとも呼ばれている。正確な戦い名になったのは、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーにより、近郊のワーテルローの名を取り「ワーテルローの戦い」と命名されたことに始まる。
『ナポレオンが大敗した〝ワーテルローの戦い〟」。前述したが、初期のABBAはビヨルンとベニーがメロディを作り、マネージャーのスティッグが英語の歌詞を付けるというケースが結構あった。後にビヨルンが歌詞を全面的に担当するようになるのだが、当時はまだ十分な英語力が身についておらず、もともと英語教師から作詞家に転向したスティッグに任されることが多かった。ビヨルンとベニーの書いたメロディを聴きながら、最初にスティッグが考え付いたタイトルは「ハニー・パイ」だった。国際マーケットでヒットするためには、英語圏以外の人でも即、覚えられるタイトルにしなくてはいけない、というのがスティッグの考え方だった、どうも「ハニー・パイ」という言葉をメロディに乗せてみてもしっくりこない。さて、どうしたものか?毎日のようにヒントを求めて本をめくっていたところ、目に入ってきたのが〝WATERLOO〟という文字だった。この言葉だったら誰でも知っているし、ナポレオンの敗北にひっかけて様々なシチュエーションのドラマも作りやすい。何よりも、言葉の響きがメロディにドンピシャだった。まさに「恋のウォータールー」の歌詞にある「本の中から飛び出てくる」かのように、「恋のウォータールー」の曲名も、本をペラペラとめくっている時に偶然のひらめいたわけだ。これは、単なる偶然ではなくまさに『運命』だったのだ!

 

こうして完成した「恋のウォータールー」はいくつかの言語で翻訳されている。スウェーデン語ヴァージョンは地元のヒット・チャートで二位、英語ヴァージョンは、もちろん一位だった。歌詞は音に乗っけて完成していくものだ。つまり言語が変われば、歌詞の内容(意味)も違ってくる。それでも、当初の「リング・リング」そして「恋のウォータールー」は、ABBAを知ってもらう為に他言語でも訳され、発表された。他言語で訳されたのは、〝サービス〟あるいは〝ケミストリー(実験)〟としての試みもあったのだろう。ABBAの歌詞はもちろん英語が主流だが、英語圏でない人達にもファン層を増やす為に、敢えて、他言語で訳した曲をリリースしたわけだ。

 

ところで映画『MAMMAMIA!』 の〝ワーテルロー〟の件だが、ABBAを知らない人達や翻訳家先生には大変失礼かと思ったが、筆者は二か月間に渡り、かなりの抵抗をして反論せざるを得なかった。「ABBAはワーテルローなんて歌っていない」「どうして、そこまで世界史のナポレオンに固執する必要があるのか?」。毎日、それこそ〝戦い〟だった。結局、最初だけルビで「ワーテルロー」を入れることで決着し、後は「ウォータールー」と日本語訳された。一件落着になったかどうかはわからないが「大先生に刃向うフトドキな奴は誰だ?」と映画界が一時騒然となったのは事実だ。

 

尚、最近では「ワーテルローの戦い」を「ウォータールーの戦い」と英語表記する歴史書も現れるようになった。ABBAの「恋のウォータールー」のヒットがなければ、こうした現象も起こらなかったのかもしれない。

*筆者作『やっぱりABBA!』『ABBAザ・バースデー』より

 

 

タイトルの“ウォータールー”とは、ベルギー中部にある都市ワーテルローを英語読みした地名。ナポレオンがイギリス軍に大敗した“ワーテルローの戦い”で有名な場所だ。当初から目立ち、優勝するために「世界中の多くの人に覚えてもらう曲名にしないといけないな」と頑固なまでにこだわっていたマネージャーのスティッグは、当初「恋のウォータールー」ではなく「ハニー・パイ」と命名する。しかしどうもピンと来ない。そこでスティッグは1週間ほど、様々な本を読みあさった。「何か良いアイディアになる言葉はないか…」そして、ある言葉に目が止まったのだ。“WATERLOO”。「いいじゃないか、ナポレオンを題材にしていくらでも詩を書けるぞ」。過去、スウェーデンで最も作詩していたスティッグにとってはイッキに頭が回転し始めた。この頃、ビヨルンはまだ英語の不慣れで、楽曲はスティッグ、ビヨルン、ベニーの3人で作られることが多かった。それもビヨルンの努力で徐々に作詩はビヨルンだけで担当することになる。

こうして完成した「恋のウォータールー」。国内でヒット・チャート1位を獲得。ちなみに2位「恋のウォータールー」の英語スウェーデン語ヴァージョン、3位はLP『恋のウォータールー』だった。前作「リング・リング」と同じような「金・銀・銅」を独占した。海外ではベルギー、フィンランド、ドイツ、アイルランド、ノルウェー、南アフリカ、スイス、イギリス、スウェーデンでナンバー・ワンを獲得し、オーストリア、オランダ、ジンバブエで2位、フランス、スペイン、ニュージーランドで3位、オーストラリアで4位、アメリカで6位、イタリアで14位を記録しています。日本でも3位に入った。まさにナポレオンを破った敵国同様に、古いユーロヴィジョンの伝統を打破した一曲となったわけだ。