非常に興味深い記事を見つけました。

 

ネットでは常識と成っている、『朝鮮の稲作が日本に伝わったは間違いで、中国から直接に伝わった稲作がむしろ日本から

朝鮮に伝わった』という理論自体が間違い」だという事です。

なぜこのような誤りはインターネットで真実化されたのでしょうか。

 

>注意しなければならないのは、前掲図はあくまでも温帯ジャポニカ在来品種の遺伝子変異のデータだということです。朝鮮半島の水田稲作は初期鉄器時代になると一旦衰退するので(小畑 2010)、それ以前に存在していたであろう古代品種のデータを全て反映しているとは限りません。

 

 

 

よくよく考えたら、「古代中国から古代朝鮮に、稲作だけ伝わらなかった」と考えるのはあまりにも不自然です。

 

不思議なことに新興宗教のモラロジー研究所(麗澤大学を運営)などの民族派右翼が、なぜか稲作の伝来に対して民族主義的な歴史プロパガンダを流しているのです。

それまでの戦後日本では左翼的な歴史観が流行り、なんでも中華や朝鮮を持ち上げて、日本を下げるような言説ばかりだったのでその反発でか、1980年代から民族派の歴史観が台頭して来ましたが、民族派も左翼も結局は誤りなのです。

 

ふと思いついたのが、「稲作と神道右翼の関係」です。神道右派は「米作りは国作り」とやたらと農業を神聖視してますよね。

参政党とか。

神道右派の水田稲作信仰が朝鮮から伝わったとなるのは彼らの教義上まずいのではないでしょうか。

 

 

しかし改めて、「インターネットで啓蒙されている歴史の真実」が実は全くの誤りである可能性は常に考えた方が良いですね。

水田稲作のすべてが、「朝鮮からは一切伝わっていない!」というのが真実化されているのは恐ろしいものです。

 

 

・「アイヌは侵略異民族だから先住民ではない」は誤り。アイヌは先住民族である。

 

 

上記の稲作の伝来のルート問題を歴史学・考古学的に推理された、トイヌプリ(ToyNupuri)さんは、

他にも興味深い記事を書いています。

 

>よくインターネット上では、アイヌ民族が鎌倉時代に樺太から南下して北海道を侵略したなどの俗説が流布されていますが、これには全く根拠がありません。

 

>動画の方でも取り上げているように、アイヌ民族が使っていた毒矢の中柄と呼ばれる部品は擦文時代から使われていました(奥尻町教育委員会 2003,北海道埋蔵文化財センター 2003,高橋 2015)。12世紀中頃の和歌には蝦夷が毒矢を作っていることを詠んだ歌もありますが(海保 1987,児島 2009)、擦文時代は少なくとも12世紀末まで継続していました(澤井 2007b,小野 2023)。

アイヌ文化の中柄が毒矢を構成する部品であることを踏まえれば、毒矢の使用が擦文文化の段階に遡ることを示唆していますが、最近の研究では縄文人の毒矢の使用も指摘されています(北区飛鳥山博物館 2017・2022)。これらのことから擦文文化では既に毒矢が使われていて、その伝統がアイヌ文化に受け継がれたと考えるべきでしょう。

 

(※和人は毒矢は使わない説は誤り)

 

 
↓引用されている学術性皆無のトンデモ論者の長浜浩明(ながはま ひろあき)は歴史学者でも考古学者でもない建築家
サンクチュアリ出版からも出版。(名前からして統一教会系かと思いきや、アムウェイ日本社の社長だった高橋歩の親族が運営)
 
 
 
・「アイヌは狩猟民族、縄文人とその子孫の和人は農耕民族なので繋がりがない」だという理論は誤り
 
 
>アイヌ人は、食品構成の重量寄与率における植物食の割合が33%を占めていたが、これは他の狩猟採集民に比べれば決して高い数値ではなかった。しかし、アイヌ人は50種類以上の野生植物を食用に利用していたことが知られている。また、C4植物は北海道の自然分布よりも高い比率を示していることから、雑穀類の栽培が指摘されている(手塚 2005)。
このように、科学的なデータとエスノグラフィーによって、アイヌ人が植物食をしていたことが裏付けられている。
 
著者(中川八洋氏)は、アイヌ人があたかも陸生動物ばかり食べていたかのように書いているが、彼らの食料資源の大半は魚介類と大型海獣だった。そして、擦文人の生業も雑穀農耕だけに依存していた訳ではなく、魚介類や大型海獣にもかなり依存していたことが分かっている。
 擦文人の集落は河川域や海岸域に立地していて、ほとんどの河川域の遺跡からは鮭の骨が出土している。産卵で川を遡上する鮭は不味いにもかかわらず、擦文人は鮭漁を行っていた。著者が言及したサクシュコトニ川遺跡からは、アイヌ文化の「テシ」と呼ばれる鮭漁法とよく似た遺構や、「マレク」と呼ばれる鮭漁具とよく似た遺物も発見されている。
 
↑「アイヌは先住民ではない」論者は、アイヌは「狩猟民族」で縄文人とその子孫の和人(大和民族)は「農耕・漁業民族」なので、食文化からして根本的に異なるという主張をしたがる。
しかし、アイヌが狩猟だけしていたは明らかに誤りであり、彼らは簡単な農業をしていたし魚や貝も積極的に食していた。
 
 
そもそも擦文人は、著者が主張するような「擦文期の純・日本人」だったのだろうか。擦文人の人骨はあまり発見されていないので、残念ながら現在までに擦文人の核DNAの解析は行われていない。しかし、発見された擦文人の人骨の形質は近世アイヌ人に近く、特に道央以東の地域では縄文時代から近世に至るまでの形質に連続性が認められるとされている(石田 2005)。 

 擦文人が縄文人の子孫だと仮定すると、アイヌ人が持っている縄文人由来のDNAは、擦文人から受け継がれた蓋然性が高いと考えられる。擦文人は10世紀以降になると、オホーツク人が暮らしていた道北東部に進出するようになる(瀬川 2013)。

 

この時期に、前述の人口推計の通りに多数の擦文人と少数のオホーツク人の間で混血が進んでいったと仮定すると、アイヌ人には縄文人から69%とオホーツク人から31%の遺伝子流動があると推定している Takehiro Sato の前掲論文の混血モデル(a)とも矛盾なく整合する。

 

 

 

 

 

 

 

↑このブログでも保守主義者としてよく掲載している中川八洋(nakagawa yatsuhiro)さん。

工学博士で元筑波大名誉教授。

このように彼も、長浜の民族派右翼の縄文ファンタジー史観に影響されている。

 

ただし中川八洋さんは、E・バーク、A・トクヴィル、ハンナ・アーレント系の始祖系列の保守主義を日本に紹介した功績がある。個人的には40%~50%は共感している。

大東亜戦争肯定論を共産主義勢力のサンフランシスコ条約否定の為の策謀だと見抜いたのも中川氏である。

民族問題では信頼できないが、保守主義や大東亜戦争論においては晴眼の賢者として尊敬しています。