fragile(フラジャイル)というのは、「こわれやすい」という形容詞である。
ガラスや陶器の入った段ボールに、割れたグラスなんかのイラストに添えて、赤い文字でFRAGILE、と書かれていたりする。
大学を出て、工業系の高校の国語の先生になった友人が、「いまどきの高校生は、壊れとる」と言ったのは、もう40年も前のことになる。いわゆるインテリである彼の言葉や考え方が、彼らに通じなくて、人として壊れている、としか表現できなかったのだろう。
もともと人間というのは、本能の壊れた生き物だという。

そのかわり、社会をつくり他人とつながることで、生き延びてきたし、地上の風景も、ついには気象までも変えるほど繁栄することができた。その一方で人は、集団の力で、他の集団を殺戮したり、元に戻せないほど環境を汚したりもする。
 

本能が失われ、他人に依存することの多い個々の人間は、実はとても壊れやすいものだ、と私は思っている。

それは、人が人を壊すのもたやすい、ということでもある。
 

PTAの役員をしているときに、若い大学の教官の講演を聞く機会があった。
彼が言うには、家庭内のいわゆるドメスティックバイオレンスも、学校での「いじめ」も、職場でのパワハラ・セクハラ、国際問題に至るまで、力のあるものが力のないものを攻撃・排除して、自分を守ろうとする、人が人を壊してしまいかねない行動や発言、すべて同じなのだそうだ。家庭内にも職場にも、あらゆる人間関係に、あなたに私に、その危険は潜んでいるではないか、というのである。

それらすべてを、「暴力」とよび、1.身体的な暴力、2.人格否定などの言葉の暴力、3.個人的なことに干渉しすぎること、4.逆にネグレクトなど存在を無視すること、5.当人の実力以上の仕事を強要すること、6.逆に当人の能力からすると易しすぎる仕事をさせること、の6つの型に分類していた。

これらの多くは、相手の性格や、積み上げてきた関係によっては、むしろ親密さの表れであったりもするが、それを決めるのはあくまでも「相手」であって、「私」ではない。多くの人は、自分の欲望のために、気づかずに人を傷つけている。

 

私は、誰かの言動に傷つけられたら、それは暴力を振るった相手が悪い、と思っている。

私の言動が「暴力」にあたらないか、いつも気にしている。

そういうふうに自分自身が「フラジャイル」であることが、むしろちょっとした強みではないか、とまで思っている。

 

 

(写真は、むかし修理させていただいた「糸車」)