先月から、石崎勝紀氏とともに、元旦の地震で壊れた土蔵の修理を、少しづつ進めている。
土壁は、いまや新築になど採用する人のない、滅びゆく技術だと思われているが、

文化財の修理など、「滅んではいけない技術」でもある。
地元の自然から生まれる材料を使い、それが余れば自然に返す、合理的な技術でもある。

技術といっても、難しいことは何もない。
機械よりも手仕事の比重が多いというだけで、
手仕事というものは「やってみなければわからないし、身につくはずもない」ものなのだ。

きちんと手順を踏めば誰でもできる手仕事を、
ちょっと辛抱して、「なぜそうなのか」をも学びながら、自分のものにする
それだけのものである。
 

ローテクノロジーではあるぶん、ハイテクニック、は言い過ぎだが、
まあ多少のテクニックは必要になってくる。

 

 

土蔵修理を見ているお客さんが、

藁をまいた竹や、寝かせておいて粘り気を増した土などを見て、
「しっかり技術を伝えてもらっておいてね」と私に言う。

 

いやいや、私は木工屋なのだが、と思いながら、
ちょっと待て、土蔵(左官)仕事だけじゃない、仕事というだけでもない、

知識や道具機械も含めて、それこれ含めた「技術」こそが、自分が生きる「価値」ではないか、と気づいた。

 

人生の幸福は、自分自身の「有用感」によるところが大きいと思っている。
カネがあっても、やさしい家族に囲まれていても、長生きしても、

自分自身が、周囲に対して価値ある存在であると実感できなければ、

生きることはむなしいだろう。

 

自分の人生のテーマを

「ラジカルな技術により、自分と周囲の生活を豊かにする」
と決めた。

 

ラジカル(radical)というのは、政治的な過激派なんかに使われる言葉だが、

語源的には、根っこ、というところからくる「基礎的、根本的な」という意味で、

社会を根本的に変えることをめざすがゆえに、急進派・過激派の形容詞となったものである。

 

木工であれば、切る、削る、つなぐ、組み上げる
設計の面では、日々改良される道具や商品を上手に取り入れて、合理的な生活を提案する。

一方で、新しいものが合理的とは限らない。
伝統技術を、なぜそうなのかという理由から、この身に装着したい。


世界は広いというが、

見ているようで見えていないこと、そもそも目に見えないもの、

あるいは、想像するしかない歴史と未来が確かにあって、

広いばかりではない、とてつもなく深いのである。