8月にも書いた、富山県の「高校再編」問題、
13日(月)に、砺波地区でも、3回目だか4回目だかの意見交換会が行われる。

有識者会議からの提案、という形をとってはいるが、
当局の態度は「かたくな」である。
県の教育委員会の枠組みで考える限り、
少子化→定員減→高校減
という「合理化発想」を、変えることは難しいだろう。

 

越境入学募集や、特色ある学科づくりというのも
しょせんは「奇策」でしかないように思っている。

 

もっと大きな視点、

学校教育とは何か、
その中で、高校教育の果たすべき役割は何なのか、
教育は、改革ではなく「再興」を目指さねばならないのではないか、

そこから考えてはじめて、

地域にとっての高校の意味、
高校と高校生のために地域が果たすべき役割、というようなことが

提案されるべきなのではないかと思うのである。

 ◇ ◇ ◇

 

教育の役割は「生きる力」を養うことで、

特に学校教育は、基礎的な教養を身につけるとともに、
集団の中で、個人個人が各場面でいかなる役割を果たすべきなのか、

繰り返し教え込まれるようにできていると、私は感じている。

残酷な話にも聞こえるかもしれないが、
高校受験はぶっちゃけ、職業に直結はせずとも、

社会を指導するエリートか、指導されるワーキングクラスか、

「進路」を隔てる区別、「輪切り」こそが、その本質だと思っている。

 

100%に近い子供が進学し、授業料も無償化され、
高校教育そのものは「義務教育」化した。

結果、いわゆる偏差値の低い高校では、
中学で身につけられなかった学力やら、
家庭や小学校で身につけられなかった「基本的生活習慣」やらを教えねばならない。

 

一方で高校は、就職や進学のための「予備校」でもある。
より良い(安定した?)就職先に選んでもらえるような勤労意欲、

専門学校であれば、職業教育を受け入れるだけの素養、

大学であれば高等教育を学ぶに足る学力が、事実上の卒業試験だ。

進学校であれば、卒業生の進学先が高校の評価基準となる。
 

スポーツなど得意分野で身を立てるものも含め、

熾烈な「競争」を勝ち抜く努力を、子どもたちに強いることも、高校の役割だ。

 

県内の某進学校では、入学生に、

「都会の中高一貫校では、君たちの3年前から、大学受験に備えた勉強をしている。

 部活動で、中学から始めたものと、高校から始めるものの差、といえば分かるだろう。

 君たちは3年間で、そのハンデをひっくり返さなければならないんだ」

と檄を飛ばしたという。

 

 ◇ ◇ ◇

 

世界では、分岐型とか複線型とかいわれる教育制度も多く、
初等教育の終わった時点で、それぞれの「進路」が分かれて、
人々が階層化されていることも珍しくはない。
 

中等教育の半ばで子どもたちを振り分ける日本の高校受験は、

平等という名目と、差別化という本音との、「矛盾の象徴」なのではないか。
大いに伸びるべき時期を、定型に押し込め、抑圧してはいないか。

戦後70年を過ぎ、そのままの制度、そのままのプログラムで、
(途中、「ゆとり教育」などという何だかトンチンカンなものを挟んだが)

21世紀、この国は未来を切り開く人材を輩出できるのか、

とても心もとなく感じている。

官僚機構や政治制度よりも、
教育制度をこそ改革しなければならないのではないか。

 

 ◇ ◇ ◇

 

さて、福光高校である。

砺波地区の普通科高校は、城端線沿いに見事に「輪切り」になり、

 高岡 → 砺波・高岡南 → 福野 → 福光

の順に、受験の偏差値が落ちていく。

福光にも入れない子が、職業科・私立に行く。

表立って言わなくても、これが現実である。
 

福光高校は、偏差値でいえばちょうど真ん中あたりの子たちの、受け皿になってきた。

言ってみれば、義務教育化した高校の象徴である。
それがなくなれば、誰もが高校に行く時代、地元に高校が「ない」

地区として見捨てられた、という絶望を

対象の子たちは感じるだろう。

 

福野高校の定員増でフォローするという話もあるが、

その場合は、難関大学を目指す子たちから、

福野という選択肢が奪われることになりはしないか。

高校は旧市町に一つづつ、だったのではない。
学区全体ですでに色分けされ、役割分担を担わされているのだ。

砺波地区という弱小学区に、役割を「代替」できる他の高校はないのだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

その気になれば解決策はあって、

ひとつは学区という時代遅れの概念を放棄すること。

 

教育長のいうように、富山県はコンパクトだ、

富山市内や高岡市内から、福光高校や泊高校に通ってもらえばいいのだ。

諸般の事情で遠い高校に通わねばならなかった悲哀を、

富山高岡の子どもたちにも平等に感じてもらおうではないか。

そして、町の人たちがどんなに「学校」を大切にしているか、見せつけてやろうではないか。

 

もうひとつの解決策は、

少人数教育の普通科、というものを創出することである。

 

教育はサービス業である。

教員が生徒一人にかける時間が多くなることで、教育内容は充実する。

手厚い受験対策も、得意分野を伸ばすことも、

少人数教育という大前提でしか、想定できないのではないか。

 

双方とも、教育の「平等」からは離れて、

学校ごとの「格差」を認めるところからの出発になる。
また、地元自治体・住民の「負担」を担保せねばならないかもしれない。

 

逆に言えば、

そうまでして、高校を守ることこそが、自治の意義であり、

地域に対する誇りと愛着の表現である。

 

ここを正念場として戦わずして、

地方創生だの地域おこしだの地元の活性化だの、
口にできぬことになると、各自心得るべきなのである。


(写真は、8月22日、福光農協会館での意見交換会より)