4年前、選挙に出たとき、キャッチフレーズを 「かぜとなみ」 とした。
いまだに、「かぜとなみ・22世紀塾」という政治団体は解散していないので、
県のウェブサイトで、収支報告を見ることもできる。(金の出入りは、ない)

かぜとなみ、の5文字には、それぞれ意味がある。
この間、多少の異動はあったが、

・架せられた十字架 
・税は誰のもの 
・透明な行政と社会 
・仲良く何でも分け合う
・未来に責任をとる

というようなものである。

5つのうち、中の3つは「手法」であり、より具体的な政策につながっている。

対して、最初の「架せられた十字架」と、最後の「未来に責任をとる」は、
思想・哲学・立場とでもいうべきものだ。

架せられた十字架、というのは、
世代として、大人として、責任がある、ということで、
難しいことでも何でもない、戦争や災害の歴史から目を背けない、ということ。

つらくとも、自分と先人の、「罪」を明示して、政策につなげていくということが
未来に責任をとる、ということだろう。

ちなみに、過去、起こってしまったことに対しては
本当の意味で、「責任をとる」ことなど、できない
と思っている。

ただ、二度と同じ過ちをしない、過去の惨禍を繰り返さない、
そういう決意こそが「責任をとる」という言葉の意味であろう。

 ◇ ◇ ◇

このところ、「みどりとやま」の活動にかかりきりで、
「九条救助隊」のほうは、表立ったことをあまりしていない。

だが、「アベ政治を許さない」という思いは日々強くなっている。

秘密保護法も、安全保障法制も、自民党の改憲案も
敗戦による、現在の憲法と国際連合主義という土台に目を背けたもので、
過去に対しても未来に対しても、無責任きわまりない。

原発の廃止への道筋ははっきりせず、
地震などの災害のたび、国は責任逃れを口にして、
あげく、誰かが絵を描いた「焼け太り」政策に乗り出す。

これを許すことは、未来への責任を放棄することだと、
なぜ、みな思わないのだろうか?

政治活動をしているいないにかかわらず、
政治の結果は、有権者みんなの責任である。

私の立場は、「かぜとなみ」というキャッチフレーズそのまま、永遠なのである。



かぜとなみ


(「かぜとなみ」のシンボル、帆船)