その1 ・・・ その5 に続けて。

BI(ベーシックインカム)は、「労働と収入を切り離す」というふうに書いた。
労働は収入を得るため、という常識は、根強く社会に行き渡っており、
にわかには理解しがたいだろう。
理解しがたいものが、納得されたり主張されるはずがない。

間違ってはいないが、インパクトを狙った、乱暴な書き方だったかもしれない。

より詳細にいえば、「生きていくための最低限度の収入」を、労働や投資という資本主義のシステムから切り離す、ということである。

いま現在、給与というものには、「労働の報酬」という面と、「生活の手当」という面が混在している。

別にすればいいじゃないか、といっているのだ。
生活の手当を、社会全体でフォローするのがBIだ。
労働は純粋に報酬を求めるものであればいい。
金がなくなることに対する不安や恐怖と、それにまつわるムダだけを、排除すればいいじゃないか。

  ◇

このままでは、社会は「給与に群がるアリ」のようだと思うのだ。

「いい会社」とは、「少ない労働」で「多くの手当」がもらえるところ、ということになる。
全くもって、矛盾そのもの。
だから、会社には身分制度がはびこり、派閥ができる。

子どもは、給与を持って帰ってくる親の扶養に頼らなければならない。
母親は、学校で習ったこともない「子育て」や「家事」のために、給与を諦めて男の扶養に入ったりする。

老人は現役時代の給与を蓄え、それを投資してさらに財産を増やせる者と、
蓄えがないばかりに子に扶養されねばならぬものとに分断される。

障碍者の社会参加は、なぜ「働く」ことばかり薦められるのか。

どれも、「給与」中心の社会の、弊害ではないのか。

  ◇

BIが実現すれば、どのように社会が変わるのか、ライフサイクルの面から想像していこう。

子どもは、生まれた瞬間から、一生の「食い扶持」が保証されている。
すべての子が「銀のスプーンをくわえて」生まれてくるとすれば、
親の負担感はまったく違う。ひたすら可愛がればいいのだ。
それが、子どもの育ちにも、親の成長にも一番いいことだ。
親はなくとも子は育つのである。社会が育てるのである。
出生率だって上がるだろう。

教育は、仕事でいえばサービス業である。
人に差をつける教育、一律の義務教育でないものは、現状、教えるにも教わるにも、大きなコストがかかる。
資格がはびこり、認可が必要になる。

BIがある社会なら、教育はボランティアによって賄われるようになるだろう。
投資ではないのだ。リターンが求められないのだ。
学ぼうという意欲と、教えようという意欲だけが、教育を支えるようになるだろう。

企業は、従業員の生活を保証する必要がなくなる。
リスクなく人を雇い、成果がなければ直ちに撤収できる仕組みになる。
ブラック企業など存在しようがない。NPOも必要なくなる。
起業も活発になるだろう。M&Aで一攫千金を狙うものもいれば、むしろじっくり取り掛かって人々の生活を変えようとすることだってできる。

もっと稼ぎたい、は、もっと社会の役に立ちたい、と直結する。
働きたいものが、働きたいだけ働く。
労務管理は、働き過ぎをセーブするためだけの言葉になるだろう。

趣味に没頭する人だって出るだろう。
アートを金に変える必要はない。町には芸術があふれるだろう。
わかる人からの感謝、賞賛、評価、そういうものだけが目標となる。

金持ちは金持ちでいい。多少税金は増えるだろうが。
金持ちであることに付随した特権がなくなるだけのことだ。
まず、貧乏人から羨ましがられるということがなくなる。

生命保険も貯金も、必要ない。

怒ったり、焦ったり、悲しんだり、心配したりということが格段に減るような気がする。
できることをやって、笑いながら、穏やかに年をとるのだ。

長生きすればそれもよし、
金に雇われた介護人ではなく、一緒に暮らした家族が、必要な手助けをしてくれる。

寿命が来ればそれもよし、
人の尊厳を無視するような延命策は、いらない。


三世代