昨日の記事では、「当たり前」ということについて考えた。
「当たり前」という言葉を使う時には、比較対象として、似て非なる「普通」という概念を、いつも思い浮かべる。

半月前、大阪府の議員が、「LINEで仲間はずれにされたのを恨んで、子どもに脅迫めいたメッセージを送った」として、会派から除名され、丸坊主で反省会見を開いた。

山本

かつて、女性アイドルグループのメンバーがルール違反とかで丸坊主になった時にもぞっとしたが、これもナニゴトかと思う。
反省は心の問題なのに、目に見えないと、本人も周囲も納得がいかないということだろうか。
自虐を形にしたところで、誰も喜ばないし、問題に対して何の解決にもならない。
日本文化はつくづく、空っぽの中身と、気取った入れ物だけなのだろうか。

そして、この話題はここでぷっつりと終わった。
これが当たり前、だとか、普通だという感覚があるとすれば、マスコミもどうかしている。

当たり前というのは、当然→当前、の訓読みで、「特別なことなしにそうなっている」という意味である。なにごともなく、期待通り、終始が一貫している、という感覚である。
対して「普通」というのは、あまねくとおる、つまりは状況として「多数派」だということだ。

当たり前は「理由」に着目しており、普通とは「結果」を述べているに過ぎない。

だから、昨日の記事で取り上げた、井村さんの詩は「あたりまえ」なのである。
普通であることに、感謝する必要はない。

だが、現実に誰にでも見えるのは「普通」かそうでないか、だけなのだ。

人は、特に子どもは、普通であることを求められ、普通でないことを恐れ、普通であろうと努力するものである。
だから、普通でないものを恐れ、差別したり攻撃したりする。
その傾向自体も「当たり前」だと言えないこともないが、もっと当たり前なのは、人はそれぞれ違っているからこそ、集団として機能する、集団の文化も違っているからこそ豊かな交流が起こる、という事実である。

反省を表明するために丸坊主になることを、声高に非難をすることもないが、こんなことは当たり前ではない、という声が聞かれないのは気持ち悪い。

普通という言葉の罠に、多くの人がハマり込んでいるのではないか。
人は、「当たり前」をめざして努力すべきで、「普通」に安住するのはつまらないことだ。

高校の普通科は、かつては普通(多数派)ではなく、進路を後の進学後に委ねなければならないもの、針路を明快にできないものの溜まり場であった。

中学3年生だった「めい」が、寄宿舎のある高校や、女の子が少数派になる工業高校に進学するのもいいぞ、という私に、「私は普通の高校生になりたい」と言ったことが忘れられない。

進学科、という名前に変えてはどうかと思う。