先月発売された週刊文春(9月20日号)の記事に対して、9月19日付で内容証明郵便を代理人(弁護士)を通じて、文春側に送らせて頂いたが、何の回答も無いので、10月23日(火)、週刊文春を名誉棄損等で東京地裁に提訴させて頂いた(これまで掛かった時間・日数は代理人の訴状作成上の時間・都合である)。

 

 僕はこれまで芸能生活・行政政治職生活の中で、何度となく週刊誌・新聞・写真誌等で批判・誹謗・中傷され、あることないこと等を書かれ叩かれて来た。

 その度に、我慢・笑い飛ばし・無視等の対応をして来た。勿論、我慢や許容の限界だったり、残念・情けない極みだったり、怒髪天を抜くこと等も多かった。特に、僕自身ではなく、友人や親類縁者、両親兄弟等への心無い取材や誹謗中傷には、切れそうになり、生きる気力さえも失ったこともあった。それでも我慢して来た。


 しかし、今回の文春の不誠実かつ配慮を欠いた記事、事実無根・事実誤認・虚偽とも言える記事にはさすがに我慢・許容の限界を超えた。これは完全に人格破壊行為である。

 公の言論・報道機関が事実や真実の確たる実証や裏付けも無く、単なる伝聞・噂・推測等で記事を構成する。それを許せば、それはもう何でも有りになる。しかも、情報源の守秘義務なのか、記事では「県庁関係者」「地元関係者」「後援会関係者」等、情報源を明示しないスタイルを取り、それらの者の発言・噂話・伝聞等を中心に記事が構成されている。その「・・・関係者」方々は一体誰なのか? 実在するのか? 本当のことを言っているのか? まぁ、それらはこれからの裁判で明らかにされるだろうし、されなければならないが。


 今回そういう取材哲学・姿勢・手法に一石を投じ、社会に問い、自らの名誉を挽回し、報道の暴挙と闘うために法的措置を選択した。

 提訴に当たっては、当然、賛否両論があった。「こちらが騒ぎ立てれば向こうの思う壺である」「週刊誌側を売上等で資することになる」「ほっとけば良い。笑い飛ばす余裕も必要」「有名税だ」「例え勝訴してもイメージは払拭出来ない」等々。

 しかし、今回、多くのリスク・デメリットも十分考慮した上で、「このまま黙っていると、記事の内容を認めたと誤解される可能性がある」「知事時代のことであるなら、政治家として潔白を証明する責任がある」等の意見を優先し、あえて司法の場で公正公平・公明正大な判断を仰ぐことを選択し、提訴に踏み切った。


 勿論、言論・報道・表現・出版等の自由権は担保されなければならない。それが民主国家の大前提である。また、「国民の知る権利」の観点から報道の義務や権利は守られる必要がある。しかし、自由権の行使にもある一定のルール・基準・倫理観・道徳・常識・品位品格というものが必要だと思う。それらの欠如は、第四の権力(今や第一の権力・メディア報道機関)の横暴・暴挙を許し、社会を混乱させ、無秩序社会の増長に繋がる。

 報道・言論機関には公器として、社会の秩序・倫理観・ルール・正義・正論・真実等を明示し、社会福祉の向上や社会の練磨・進化・発展等に寄与する義務と責任があると思う。


 今回の裁判で結審・判決が出て(判決まで行くかどうかは分からないが)、仮に勝訴したとしても(自信はある)、それは数か月・数年後で、その頃は世間の興味も無くなり、社会にこれといった影響もなく、週刊文春の謝罪文も小さく、賠償金を支払っても文春にとっては痛くも痒くもなく、それより誌が売れることの方がメリットがあったり、僕の名誉挽回に大きな効果も無く・・・・終わるかも知れない。しかし、例え誰も認識・評価はしてくれなくとも、自分自身の人生として、今回のことについてはキチンと潔白を証明すること、そういう行動を取ることが僕の生きる信条である「後悔の無い人生」を全うすることに繋がることは明白である。