今から12年前(1998年)、丁度長野オリンピック開催時、2月の泉州マラソンのタイムが3時間16分35秒だった。

 驚いたのは、この時期の毎月の走行距離がさほど多くないことである。1997年11月130km、12月150km、1998年1月162km、2月235km、3月191km・・・・・・である。

 この程度の距離なのに、3月の鴨川マラソンで10km38分、4月五木・美浜ハーフマラソンを1時間25分57秒・・・・・である。


 今より全然走って無いのに、今よりかなりいいタイムである。この年(1998年)の4月以降、サブスリーに挑戦すべく徐々に月間走行距離を上げ、インターバル等の走り込みをやった。そして、この年の11月~12月、霞ヶ浦か筑波での芸能人初のサブスリー達成に照準を合わせていた。

 9月末の皇居での練習、40km走で2時間45分を叩きだし、サブスリーはほぼ確実視されていた。ところが、10月の不祥事で自主謹慎である(笑)。正に青天の霹靂。泣く泣くサブスリー挑戦を断念せざるを得なかった。この時ほど、悔しく残念なことは無かった。


 僕は、これまで4~5回、サブスリーに挑戦している。

 例えば、96年10月から300~400kmの走り込みを開始し、翌1月は何と523km走り込んで2月の沖縄マラソンにチャレンジした。初めから1km4分ペースで調子良く刻んでいたが、30km地点で突然の股関節痛に見舞われ、失敗に終わった。

 他にも、ゴールドコーストやマウイでチャレンジしたが、いずれも30kmを過ぎて、足腰が痛み出し、失速し、サブスリー達成には至っていない。いずれも、練習し過ぎから来る故障であった。


 2005年12月の青島太平洋に向け秋から走り込み、この年の大会を3時間6分で走った。その翌月から走行距離を上げ、翌年(2006年)の青島太平洋でサブスリーにチャレンジすべくコツコツと練習をしていたのに、この年、知事選に突入し、結局チャレンジ出来なかった(笑)。つくづく僕はサブスリーには縁が無いと思われる。


 12年前、そんなに走り込んではいないにも関わらず、今より断然いいタイムで走っているのは、それまでにサブスリーを狙って練習した蓄積があったからかも知れないし、また、年齢的な若さもあったのかも知れない。故障しても、回復が早かった。

 1998年2月の泉州マラソンでは、前半を1km5分で刻み、後半を4分30秒で刻んでいる。

 最後の数キロの中に、3つ大きな橋があり、そこがかなりのアップダウンだった。しかし、そこでラストスパートをかけている。今では考えられない。あの頃くらいの走力があったら、今度の西日本マラソンの関門突破は楽勝であるのにな~。最近、走りながら、そんなことばっかり考えている。弱い証拠だ(笑)。

 あぁ~、でも現実は違う。トホホホである。

 過去の栄光(成功体験)に縋っても仕方無い。これからが重要である。

 とは言え、やはり、14日は厳しい一日になりそうだ。