1月16日(金)の宮日新聞に地元公立大学の教授(政治学者)のコメントが掲載されていた。

 氏の分析によると、僕の支持率が高いのは、松形元知事時代のシーガイア問題などのように世論が分かれる大きな県政課題が無いからだ・・・・そうだ。

 松形元知事がどれくらいの支持率だったのか? また、そういう調査が毎期・毎年(僕の場合、何故か年に2回以上であるが)のように実施されていたかどうかは知らないが、現在、世論が分かれる議論がないということは、つまり、県政が比較的安定しているという証左だということも言える。

 

 (別に、ここでの意見は教授に反論やクレイムを入れているのでは決して無い。極めて冷静で客観的な所感を述べさせて頂いている)

 

 それは、地域において世論が分かれる議論に発展させないことや政治的対立を生まないこと、つまり県を悪戯に二分化させないこと、県全体が総力戦で一致団結して県政発展に努められるようにすること、つまり県政を比較的安定させている技量や才覚というものは評価の対象にならないのだろうか?

 どんな小さな行政課題・アジェンダでも意図的に議論を二分化することは可能である。様々な組織や団体、見解や思想と対立することも、やろうと思えば平易である。だが、それをしない。悪戯に二分化、二項対立化しても不毛だからだ。今の国政を見れば分かる。


 氏は、また、コメントの中で僕と小泉元総理を対象化・対照化している。一国の総理と一県知事の対象化・対照化は果たして適切なものかどうか? 意見が分かれることかも知れないが、「小泉元総理が民営化という大命題を掲げたのに対し、知事は就任3年目の今もあまり何をしたいのか見えない・・・・・・・独創性のある思い切った施策を展開してはどうか?・・・・・・10年後の宮崎はこうなるというビジョンを示すべき・・・・・」とある。

 郵政民営化の是非は別にして、氏は宮崎を二分するような、例えば議会や県職員や県民の皆様と対立するような議論をお望みなのだろうか?


 「独創性のある思い切った施策」とは一体どういうものだろうか? 国に地方行政がここまで雁字搦めに縛られている中、果たして思い切った施策とは一体どういうものが考えられるのか?

 交付税を断って、債務をデフォルトして宮崎独立国家運動でもやる? 宮崎を債券化・株価・証券化して世界に売り出す? 宮崎デリバティヴ。

 定額給付金、宮崎だけ要らないという? 或いは、宮崎だけ一人当たり一万円の上乗せをする? 宮崎だけ法人税を下げて企業内部留保税でも取る? 宮崎だけ国保を無料にする? 子供と高齢者の医療費を無料にする? 宮崎だけ、医師の僻地勤務を義務化する?

  

 宮崎だけ公共工事を二倍に増やす? 宮崎だけ農振法を改正し、農振農用地に住宅を建てられるようにする? 宮崎はパン食禁止にし、米食促進で食料自給率を上げる? 県内の農業生産品すべて地産地消化する?宮崎だけ外国人の入国自由化? N乗N分方式で特殊出生率を上げる? 宮崎だけ地方議会と財務会計のあり方を変える? 地域通貨でも作る?・・・・・・・・・・


 国の統治機能が劣化する中で、国の一律的・画一的・一元的統制管理の中で、一体、地方がどれくらい個性や独創性を発揮出来るのか?

 いかに地方に優れた首長が現れても、残念ながら現行の国の法令や制度や仕組みでは限界があると言わざるを得ない。

 敢えて極論をさせて頂けるなら、それは県や地域のPR広報くらいのものではないだろうか?

 

 また、10年後の宮崎のビジョンであるが、中長期ビジョンとして産業構造の変革や意識や制度の変革、農林水産業振興や新エネルギー振興、分権化(道州制)の中での宮崎のポジショニングや存在感・存在意義・価値の向上、地方の自主自立、また分権(道州制)に置ける宮崎の先駆的・先導的役割等については平素から説明させて頂いている。

 10年後、宮崎がどう変わるかというより、地方がどう変わるか? 国家の統治システムや制度、あり方自体をどう変えるか?

 国家の構造を変えることによって地方を変える。地方を変えることによって宮崎が変わるのだ。

 

 来る分権化・道州制の中での宮崎の存在の仕方というのは、先日の地域主権型道州制シンポジウムの中で江口氏と議論させて頂いたが、この一連の改革・変革の中で、宮崎が歴史の地歩を固め、幸福度を増し、決して埋没しないことが10年後の宮崎の在り方であると考える。