先日の「東を囲む会」で、マラソンの話をしていたら、ある参加者から「東さんは、『M』ですか?」という質問が飛んだ。走っていると、こういう質問に良く出くわす。
 マラソンは確かにきつく苦しい作業である。まぁ、スポーツは何でもそうであるが、その練習や試合のプロセスは並べてきつく苦しく辛い。
 
 そういうきつく苦しい作業に「喜び・悦び」あるいは「快感・快楽」を感じられる人間は「M」なのだというロジックである。
 僕はこういう質問に出会う度に、この「M」の使い方に「?」と思うことがある。「M」型人間や「S」型人間の区分の意味が今一つ判然としないのだ。
 
 「M」。一般的にはマゾヒスト・マゾヒズムの略とされる。らしい。「マゾヒスト」は「マゾヒズム」の傾向を持つ人である。らしい。
 「マゾヒズム」とは・・・・・・一応、辞書の定義だと「他者から身体的・精神的な虐待・苦痛を受けることによって満足を得る性的倒錯――被虐趣味」(広辞苑)とある。
 
 まず、マラソン(走ること)は性的な対象ではない。と思う。少なくとも僕にとってはそうではない。
 そして、僕の場合、他者から強いられていない。
 ましてや倒錯でもない。マラソン(走ること)は、確かに辛い。そして苦しい。一人で、何でこんな苦しいことをしなければならないのか? と自己矛盾にも似た感情を抱くときもある。
 しかし、その辛さや苦しさ自体が快楽なのでは無い。少なくとも僕は違う。と思う。厳密に言うと、その辛さや苦しさの向こう側にある――つまり、達成感・爽快感・苦痛からの開放感・記録の更新や勝利・・・・・・こういうものに喜び(悦び)や快感を感じるのである。
 
 同じ会でこういう質問もされた。「東さんにとって、理想の社会とは一体どういう社会ですか?」
 恐らく、質問者は、今の社会を「理想」とは考えてないのだと思う。そして、「理想」ということに、或いは「理想の更新」という事態に少なからず興味を持っているのだろう。
 
 この今の日本の、少なくとも経済的には豊かになった社会は、昭和20年代・30年代が標榜した、ある意味「理想社会」であったに違いないことを彼がどう捉えているかは別にして・・・・・・・・・
 
 僕は、間髪を入れず「政治の無い社会」「政治の要らない社会」と答えようとした。が、止めた(笑)。
 
 止めた理由として、一つ目は、説明に最低でも1時間はかかると思ったこと。
 二つ目は、こういう回答は「戦争の無い社会」「争いや諍いの無い社会」「犯罪の無い社会」と言った内容と同類と見られ、まるでマルクス・エンゲルスが「空想社会主義」を批判したように、単なる空論・虚無に過ぎないと思われるかも知れないと考えたこと。
 僕は、空論・虚無が悪いと言っている訳では無い(少なくとも酒のツマミくらいにはなる)。X空論+Y理想論=Z虚無という関数から導かれる何通りかの解を論ずるような、フワッとした空間ではなかったということである。
 
 もっと言うと、「理想」や「目的」が無くなった社会(国家)。いや、それらが見え難くなった社会(国家)。言い換えれば、それらを獲得してしまった社会(国家)で、新たなる「理想」を他者に問うことが出来る資格や権利を有することと、それらを共有したいという悲劇的な意思、そして、それらを他者に尋ねなければ確認出来ない残酷なる風景が、僕を一瞬立ち往生させたのである。
 
 その現象こそが、「理想」を見失った社会(国家)での、他者から強いられた「M」の「理想」なのかも知れない。