28日(月)毎年恒例「娘と二人旅」。今年は娘のリクエストで大阪USJに行った。生憎の雨模様にも関わらず、春休みということもあって沢山の人手だった。各アトラクションやパビリオンはどこも長蛇の列。100分待ちが普通の状態。それでも黙々と秩序を守って並ぶ日本人の姿が印象的だった。
アメリカ文化の前に黙って並ぶ日本人。戦後、この姿は変わっていないなと思った。終戦直後アメリカ物資の配給に並んだ日本人。あれから60年、数々のアメリカ文化――70年大阪万博における「月の石」、オイルショックにおけるトイレットペーパー、マクドナルド、ディスコ、アメリカ映画、コンサート、東京TDL、USJ等々――に軒並み日本人は並んで来た。アメリカにおける日本支配というスペック。善悪や是非は別にして、アメリカ帝国主義の傘下にあることを痛感させられる現実がそこにあった。
日本文化を欧米に輸出して、そこに現地人が長蛇の列を作ったということは滅多に無い。いや皆無だと言ってもいいくらいだ。
誤解の無いよう断っておくが、別段政府の広報に踊らされてナショナリズムの高揚を謳っている訳では無い。
竹島を韓国固有の領土と主張する韓国人俳優を崇拝している一部の日本人がいる。何度も言うが、ここでそれらの善悪や是非を問うつもりもないし、国威発揚を主張している訳でもない。それらの議論は別のディメンション(レベル)である。ただ、その俳優が「冷静に対処・・・・」という「仕事=芝居」外の態度の「冷静・冷徹」を客観視・分析できない一部の日本人達は、外国文化に長蛇の列を作ること、つまり外的圧力でしか内的改革を断行出来ない内的(消極的)日本人の有り方を象徴しているといえる。言葉を変えるなら、アメリカ型デモクラシーを採用した割にはそれらの圧倒に慄き、政治は慌てて狩猟民族型デモクラシーの実践者を排除しようと的外れな対応に躍起になり、またそれらの劇場型市場行動を列を作って傍観している者達と少しも違っていないということである。
黒船が初めて日本に来たときに、それを初めて見た日本人は「それ」が見えなかったという説がある。人はそれまでの経験に無い形は見えないのである。経験上の記憶に組み込まれていない想像を絶する外形というのは最早ビジュアルではないらしい。余りに巨大で新しい類型でのスキームやストラクチュァーはただただ奇異で脅威に映り、日本人には外形として視界に入らなくなってしまうのだろう。
つまり日本人には見えないのだ。
それらの予防策として、アメリカは日本を加工し、これまで「見える形」を教育してきた。日本人はその「見えない形」を「見える形」に変える(理解する)ために自ら列を作ってきたのだ。
小雨そぼ降る中、アメリカ(「見える形」)を体現するために100分もの時間を費やし、並びながら、僕は、日本が採用しつつある「ハイエク型新自由主義」の正体=見える形について考えていた。