しかし、今回の自転車のトライアル。何が怖かったって、トラックである。
 後ろにスタッフ車(撮影車)がハザードを点けながら、僕の後方をピッタリ付けて走ってくれた。僕をガードしてくれる意味もあるのだが・・・・・・・でも、時速25kmくらのスピードでのろのろ走っていると、スタッフ車の後ろは直ぐ渋滞になる。
 その渋滞でイライラし、怒ったトラックが、追い越しの際、僕に幅寄せしてくるのだ。何回か、大きなトラックのタイヤに右肩が擦れた。おまけに路肩は路面が荒れていて非常に走行し難い。ちょっとよろけてトラック側に倒れたら、一瞬でトラックに巻き込まれる。そんな恐怖との闘いの連続だった。
 
 そんな中、4号線を8日(木)、日立市から横浜まで走行した。
 
 東京を抜け、川崎辺りから、あるバイク(自転車)マンに遭遇した。
 年の頃は僕と同じくらい。バイクは競技用のロードレーサー。ヘルメットやその他の格好も決まっていた。どうやら普段の通勤をバイクでやっているらしかった。
 彼は、やたら速かった。その漕ぎなれたフォーム、スピード、停車・発車の洗練されたルーティーン等々、中々の感じがした。
 
 それまで既に160kmほど走行していたにも関わらず、僕は彼に付いて行くことにした。勿論、足・腰はとっくに限界を越えていた。
 川崎から横浜まで約10km。追い抜き追い越され、彼と僕とのバトルが繰り広げられた。
 最高速は、平坦で時速40kmに達した。
 後で、土屋トレーナーに「東さん、足腰がどうなってもいいんですか?」と怒られた(笑)。
 
 信号待ちで彼に話掛け、いろんな話をした。
 彼は、僕が全くの初心者であること、青森から自転車で来たこと、今日は既に160kmも走っていることなど、その一つ一つに驚愕と感嘆の心象を示した。
 
 そのときのバトルの後遺症は凄まじかった。バトルを演じているときは気が張っているから感じなかった痛みや疲労・苦痛を、終わってからドット感じる羽目になった。
 
 その翌日、9日(金)が恐怖の箱根越えだったのだ。
 
 箱根湯元を越え、管領洞門(字、違うよね?)から本格的に始まる登りは約15km。最大傾斜角10%を優に超える、文字通り「胸突き八丁」。国道1号線の一番高い標高地点は874m。山頂は勿論氷点下。路面は凍結。まさに「天下の険」である。
 
 この難所を僕は一度も歩かなかった。勿論、横浜から小田原を越え、既に60km以上走っている。殆ど、箱根駅伝のルートである。余談であるが、花の2区の「権太坂」には感動した。
 
 それでも、全工程、自転車で登った。途中、箱根小涌園(字、合ってる?)で10分ほど休憩しただけである。後、バイクを一瞬降りたのは、鼻水で呼吸が出来なくなったときのみだった。
 
 苦しいとか辛いとか、そんな紋切り型のなまっちょろい表現ではとても言い現せない。箱根越えは一生の思い出になるだろう。そして今後、箱根駅伝を観るに、リアルに体現出来ることだろう。
 
 10日(土)の朝7時に240時間(10日間)のゴールを迎え、そのまま東京羽田から宮崎に向かった。
 13時から都城市民会館で開催された宮崎県義務教育(小・中学生)PTA教育委員会の研究発表会に出席するためである。
 そこでは殊更今回の自転車トライアルのことは言わなかったが、講演の間、壇上では、足腰がブルブル震えていた。膝が笑うというけれど、足腰が笑っているという状態かな? で、立っているのがやっとだった(笑)。
 
 そして、問題の11日(日)青島太平洋マラソン。さすがに、フルエントリーは急遽キャンセルさせてもらい、10kmの部に参加した。
 
 十和田市立中央病院でもらった痛み止め(ボルダレン)座薬を入れ、岩手県立久慈病院でもらった痛み止め(ロルカム)を飲み、走った。
 
 手許の時計で、38分34秒。
 
 自分の潜在能力とタフさに、手前味噌ではあるが、ちょっとビックリした。
 「中々やるじゃん!」「結構、根性あるじゃん!」「まだまだやれるじゃん!」
 もう一人の自分が、賞賛と労いの意味を込めて、僕の肩を叩いた。