早稲田大学に通うようになって5年目である。この大学は僕に果たして何をくれたのだろう? 恥辱か、夢か、安心か、希望か、苦難か、努力の価値か、知識か、社会の掟か、友愛か、落胆か・・・・・・・・・・
 1999年3月。僕はどうしても大学に行ってみたくなった。18歳現役時代、専修大学という大学に籍を置いたが、まともに学校に行かなかった後悔が心の片隅に残っていた。そしてあの頃、早稲田大学に行ってみたい夢が叶わなかった悔恨が頭の奥底に残存していた。‘98年10月、風俗に行ったことが問題化され、自主謹慎という形で仕事から遠ざかり、社会から隔絶された。そんなとき原点回帰というか、モラトリアムへの願望というか、人生のリスタートというか、社会という現実からの逃避というか、知識の希求というか、価値観の変革というか、冒険心・探究心というか、得体の知れない何かに対する復讐というか・・・・・・・
 とにかく僕の中で何故か「大学」だった。その時「大学」しか見えなかった。「大学」に行けば、「早稲田」に行けば何かが見つかる。何かがきっと変わる。そう確信していた。それは風景であったり、世の中の色であったり、うまく言えないが確実に僕自身の意識の中にあるものだった。
 1999年3月6日にそれは決断された。それから狂ったように勉強した。宮崎に行くカーフェリーの中で20年ぶりくらいに英語の辞書と向き合った。速読英単語の初級と格闘し惨敗した。文法もくそも無い。be動詞の疑問型からの英語だった。つまり中学1年くらいからの英語である。一時も辞書と単語帳は離さなかった。大鶴義丹君と仕事でオーストラリアを1週間程旅した時も、梅宮アンナちゃんとハワイにロケに行った時も、名古屋でやっている中部ハウス工業というCM撮影でニュージーランドに行った時も目に入る英語を片っ端から調べ訳していた。様々なスタッフから「随分熱心ですね~」と感心された。誰も大学受験の準備をしているとは知る術も無かった。清水健太郎さんが主演するVシネマ『雀鬼』の撮影中、台詞をつい英語で言ってしまい回りを唖然とさせたこともあった。実力はみるみるついて、3ヶ月で中学英語を終えた。高校英語はその後6ヶ月かかった。
 忘れもしない1999年12月15日。早稲田大学第二文学部に合格した。第二文学部は夜間ということもあり社会人に広く門戸を開いていた。僕らの入学時が確か4期目だったと思うが、4期目だけで約100人の社会人入学者がいた。学校は9割が現役の若い学生だったが、1割は社会人。しかも40歳代や中には50歳代の方もいて、最初教授と間違えてしまったくらいだった。ゴールデンウィークが明けると授業に出席してくる学生の数はぐっと減る。ところが社会人学生は真面目に学校に来るので、相対的に社会人学生が多くなったように錯覚する。そういった意味では、社会人が通い易い大学だと言える。
 しかし、やっぱり基礎演習などは現役学生、それも文学部なので女子学生が多い。基礎演習はグループで発表などをさせられるので最初は本当に気恥ずかしかった。教室の出入り口の関係上、一番前に座らざるを得なかった授業もこっぱずかしかった。先生(教授)と2メートルも離れていない距離で、講義を受けるのだ。先生の方もどことなくやり難そうだったことを記憶している。それでも勇気を出しクラスコンパなどに出向く。やがて授業という空間や単位を取得するという目的意識を共有している一体感が向上しお互い打ち解けて、終には友人として位置しているのだ。4年間で何人かの親友と呼べる友ができたが、彼ら彼女らは恐らく一生物(者)だと思っている。46歳にして新しい親友ができる(しかも20歳以上年下)という奇妙な現象も大学ならではの醍醐味かもしれない。
 そうやって僕は大学4年間を過ごした。金曜日も土曜日の夜も授業を履修していたので、賑やいでいる街並を尻目に大学に通うのはちょっと寂しかった。夜9時10分に授業が終わり、それから帰る。家に着くのが夜10時。それから深夜走るのだ。冬はとても辛かった。仕事もそこそここなし、家事の参加もしなければならなかった。しかしそれらを苦だと思ったことは不思議に無かった。何故か無かった。
 大学に通って、勿論失ったものもいくつかある。仕事やそれなりの収入やハンデ3に垂んとするゴルフの腕前や家族との夜の団欒の空間等々・・・・・・僕は、大学に通うようになって(言葉を変えると‘98年の不祥事以降)獲得したものと失ったものを時々羅列してみることがある。今の時点でどちらが勝っているか、まだ見当がつかない。いつ見当がつくのだろう? つくかも知れないしそれは一生つかないかも知れない。まぁ、それが「見当」というものの正体だろう。僕は今考えている。「見当」が、いや「見当」らしきものがつくまでもうちょっと大学にいてみるのも悪くないかなと・・・・・・・