5日(月)日テレ「太田光が総理大臣になったら・・・・」SPの収録(6月23日(金)19時~OA予定)。
 
 仕事から帰って、テレビのNS番組を点けたら、村上氏の逮捕直前の記者会見をやっていた。
 コンプライアンスに人一倍気を配っていた方、ファンドのプロ中のプロと豪語されるお方。そのお方が、ライブドアがニッポン放送株を大量に買う意向があることをホリエモンから聞いたとき、それがインサイダーだとどうして思わなかったのだろうか? あれほどの聡明な方が、「気付かなかった」ではおかしい。
 恐らく、それは自ら仕掛けたインサイダーだったからだ。 つまり、そこには「法」より「りんり」が介在するのだ。
 当然、その時点でニッポン放送株の買い増し、売り抜けは止めるべきだった。それをしなかったのは巨大な利益を得るためであることは明白。
 あの時、あの人はきっと何かを見失ったんだろう。「法」よりも大きな体系を。
 
 氏が兼ねてより主張する「命の次に金が大事」「金があればなんでも出来る」「金儲けがそんなに悪いことか?」の貨幣哲学が何か大切なものを見失わせたのだろう。
 ただ利益追求だけのマネーゲーム。そこに、氏はより巨悪に変貌し、東大法学部出身でありながら、ただ、法に抵触しさえしなければ何でもやっていいという思想・・・・・・本来、法が持つ「法の精神」や考え方・存在意義をも忘失した結果になったのだろう。
 
 いつの世も、権力や富の集中は人間を変貌させる。富や権力の取得は「りんり」を喪失させるのだ。恐ろしい。その権力や富の構造もまた人間自体が発明した装置である。刃物と同じで、使いようによる。人を殺すことも出来るが、生活に役立てることも出来る。使い方は人間の主体(りんり観)に委ねられる。
 
 法で直接規制・コントロール出来ないのが「りんり」の枠である。逆に言うと、「りんり」の欠如の中の罰せられる部分が法の枠組みである。
 「りんり支配下」はとても窮屈だが、「法支配下」はもっと窮屈である。
 モラルハザード、倫理観の欠如、最近よく聞く言葉である。難しいアイデアである。
 
 死体を何年も部屋に放置しておく。子殺しをし川に捨て、平気で日常生活を送れる神経。密輸。拉致。社保庁。偽装。粉飾。振り込め詐欺。過剰な取立て。NHK。談合。天下り。駐車違反。歩きタバコ。ごみのポイ捨て。ニート・・・・・・・最早、立法・法制化でしか防げない現実。挙げれば切が無い。
 
 「りんり」の概念を発明し、法治国家というパラダイムをも凌駕する「善」の領域を人間は考えついてはいる。しかし、「りんり」は「実践」である。実践されてこそ初めて「りんり」が成立するのだ。「りんり」の「実践」は難しい。「反りんり」の「実践」より難しい。
 
 別に、偉そうに「自分は高い倫理観を持っている」あるいは「実践している」なんて言っているつもりはない。拙著でも書いた通り、いつもこの「りんり観」とは向き合い、闘っているつもりである。まだまだ負けてばっかりだが(笑)・・・・・・・
 
 最早、「りんり観」は「人」には勝てないのだろうか?
 いや、高い倫理観を「実践」している人は沢山いる。社会には、そちらの方が多いと僕は思っている。確実にマジョリティである。
 これ以上、法の領域、つまり法による規制の領域を広げないためにも、「りんり」や「倫理」の領域で修理せねばなるまい。それは何も高度な倫理観でなくてもいい。基本的な「りんり観」で充分である。
 我々がやるべきことは、モラルハザード・インモラルに直面したとき、それに学ぶことではないだろうか?
 そして、一人一人が「実践」すること。それらが、「りんり」の領域を拡大する唯一の方法のような気がする。
 「りんり」の領域がこれ以上狭まるようであれば、この国に、いや、人類に未来は無いような気がしてならない。