15日(水)清水の舞台から飛び降りる覚悟で走りを休む。「今日休まないと、19日の丹後ウルトラマラソンは失敗する」と自分に言い聞かせ、断腸の思いで休んだ。やることが無いので、とうとう後期レポート用課題図書の『アダム・スミスの誤算』を読み始めた。「やることが無いので・・・・」なんて言ったら演習のF教授に怒られちゃうな~(笑)。とにかく、意思が弱いので何もしないとつい走ってしまう。走れない辛さを忘れるためには勉強しかないのだ。そういう邪な動機で読み始めたアダム・スミス。しかし、この本がめちゃ面白い。さすがF教授だ。選択の視点が一味違う。今日もすっかり嵌ってしまって、移動中の電車の中でもずっと読んでいた。
 16日(木)解析学の補講。解析学のI先生と対峙していると、僕の人生の中で今がもっとも頭が良いのではないか? とふと思うことがある。「頭が良い」という命題に対する定義は僕の中で多様にある。その中の一つ、「脳を限界まで使おうとする意欲と実行」という点で、僕のこれまでの人生の歴史の中で最も最大値であるような気がする。そういった意味では大学を初めこと「数学」に感謝しなければならいだろう。
 そんなこととは別に、早くも走りの禁断症状が出てきている。「走らないでいいのか?」「あ~走りたい~」と常に思っている自分(わたし)がいる。それらの欲望から逃れるために闇雲に暗唱する・・・・・・「わたし」とはせいぜい「わたし」という名で名指ししている知覚の継続する流れ、つまり「習慣」に過ぎない。
 そして考える・・・・・・・「がくもん」とは? 何故「がくもん」するのか? 幾つかある解の内一つは明らかになっている。「「わたし」の内部で実現する抽象的存在の確立」のためである。ここでいう「抽象的存在」とは内なるもう一人の第三者である。胸中の同居人。それはいかなるものにも誰に対しても利害関係を持たない中立的観察者である。このことは、秋に出版する本では言っていない。ただ、「抽象概念」を獲得するためと言っているに過ぎない。秋の夜長は葡萄を食べ、「哲学」する。そうすると、走れない逆境(抑圧)の中で少しは冷静になれるものだ。