駒沢を走っていてちょっとビックリした。いつもいるホームレスのおじさんが、携帯電話で話していたのだ。
 しかも、彼とすれ違うとき、彼の会話の中から「・・・番号ボータビリティ・・・」という単語が一瞬聞こえた。彼は、誰かと話しているのだ。それも、番号ポータビリティに関する話をしているのだ。
 
 しかし、彼はどうやって携帯電話を入手したのだろう? どうも拾ったり盗んだりしたものでは無いようだ。
 ならば、購入代金は? 携帯に関する特別な助成制度があるのか? 住所や身分証明の要件はどのようにクリアーしたのだろう? 住所は駒沢公園なのか? 料金は銀行からの自動引き落としか? 払い込みの場合、請求書はどこに送られて来るのか? 写メを撮ったりするのか? ファミリー割引なのか? メルアドはあるのか? どういうメルアドなのだろう? メルアドあったら、ちょっと知りたい。 話している相手は一体誰なのか? ソフトバンクがCMに起用すればいいのに・・・・・まさに想定外。
 様々な興味・疑問が沸き起こる。
 
 もしかしたら、彼は、どこかに住居を持っていて、決まった時間に、ホームレスとして駒沢にいるのかも知れない。いや、それはまず無いと思う。彼の生活環境・様式からして、駒沢に定住?しているホームレスさんだと思う。
 僕は、彼のことの多くを知らない。目線が合えば、軽く会釈するくらいで、話したことは無い。
 
 しかし、ここでの本質は、彼が携帯を持つことの事実・現象より、寧ろ彼が携帯を持ち得る社会・国家であることの日本の有り方なのだろう。普通ならそう考えるべきである。
 そういう視座で言えば、この社会・国家統治は「良好である」と言えなくも無い。この国は、ホームレスが飢えない国家なのだ。
 
 しかし、人が自らの命を落とす国である。
 
 アンガージュマン。もし彼が、その入り口として携帯電話を所有し、そこからアンガージュマンとして社会との接触・連携・参加を模索・実践しているのだとしたら・・・・・・・
 
 彼がサルトルを読んだかどうかは知らないが、現実から逃避・避難することなく、現実そのものに関わる自由な主体として生きている彼の姿は、様々な領域で二極化する昨今の社会、彼がその犠牲になっているとしても、とまれ閉塞的な社会のその中で一つ「自殺する消極的主体」と実に対照的に力強く思えてならなかった。
 
 冒頭、僕が「ちょっとビックリした」と申し上げたのは、寧ろそのことにビックリしたのだ。