昨年発表された経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査によると、15歳が国語、数学、理科の宿題や自分の勉強をする時間は一日約25分で、調査に参加した32ヶ国中最低。先進国の中で突出して短かった。
 「学びからの逃走」・・・・・・・・「ややこしく考えるのは好きじゃない。頭が良くなりたくもないし、普通に生活できればいい」某20歳の女性。 「エリートでも首になったらなにもないんだから、猛烈に勉強したいとは思わない」某21歳大学生。 「大学出たって、今はステータス関係ないし、就職ないし」某20歳のフリーター。 「良い点て何? あほらし!」某定時制高校2年の男子生徒。 「背伸びしてまで、いい学校に行きたくはない。無理したら、自分がおかしくなるから」19歳学生・・・・・・・・・この学生は東海大短大部に通っていて、現在、当大学では中学の英語を教えているらしい。
 「あくせくしない」「がんばらない」「ゆっくり、ゆっくり」などの言葉の羅列が「みつをイズム」の根幹である。「せのびは疲れるだろう? だから背伸びは長続きしない・・・・・」などの文言。戦後の日本、無能な政治家や官僚達が間違った舵取りをしたにもかかわらず、奇跡的な復興と経済的繁栄を遂げたのは、偏にこの国民の勤勉と誠実の賜である。彼ら(僕らの先輩・親達)は、あの頃、実によく働いた。時には背伸びをし、実力以上の目標を掲げ、それに向かって黙々と努力を重ねた。 そしてやっと達成した成果が、人類史上稀に見るこの国の繁栄モデルだった。(勿論、経済的に繁栄することだけが、善であるか?という議論はある。それは、もう少し深い議論なのでここでは割愛させて頂くが・・・・)
 戦後60年を経て、この国は、「ゆとりの尊重」、「癒しの促進」、等の耳触りのいい言葉を採用した。結果、同時に「似非ゆとり」「似非癒し」の先進国病にかかった。 それは、ともすると「努力」や「頑張り」が無力であり、「あくせく」することはあたかも悪であるという思想や風潮を生んだ。
 誰でも「頑張る」のは辛いものだ。「踏ん張る」のには、エネルギーがいる。「努力」には限りない自己犠牲と強靭な自我が不可欠だ。しかし、今まさに我国と我国国民はそれをしなければならない時なのではあるまいか? 「背伸び」した実力以上のハードルとは承知しながら、しかし敢えてそこに目標を設定し、限界に挑む「努力」をすること。それを善悪の軸に置かず、必要と必然の軸に位置付けることが希求されているのではないだろうか?
 「ほどほどでいい」「好きなことをして、人生、適当に楽に生きていければいい」 国民全てがこのように考え、そのように行動したら、国家は必ず崩壊する。「それでも、いいや~ オレには関係ないよ」「オレは、ゆっくり行くよ~」 
 「ゆとり」や「癒し」を「怠惰」や「愚鈍」化してしまう、その「学びからの逃走」・・・・・・・・・それらを、側面から支える「みつをイズム」・・・・・・そのみつを氏の格言「あてにするから、はずれるんだ」冗談じゃない! 人は、常に、何かをあてにし、何かを信じ、何かにすがって生きているのだ。その生き方を根源的に否定するのであれば、「人は生きるにあらず」を標榜する極めて危険な思想だと言わざるを得ない。
 最後に、私立開城中学(東大進学率№1)の3年生50人にアンケートした。「親が社会に出た『過去』と、君が社会に出る『将来』と、どちらが幸せでしょうか?」という問いに、42人が迷わず「過去」と答えた。悲劇である。「努力」や「踏ん張り」「背伸び」という言葉や態度を、ともすると形骸化してまう「みつをイズム」は、この現況をどう説明し、どこにどう帰着させるのであろうか?