11日(木)学校の後、『芸人学生』のPRのため、雑誌「アエラ」とFMラジオの取材を受ける。「芸人学生」の世界観は、決してマジョリティとしての世界観では無い。どちらかというとマニアックでマイノリティな世界観である。「刻苦勉励」や「精励恪勤」といった世界観は人々には受け入れられ難いものだと思う。それは百も承知している。しかし、僕は、今世紀のこの国のキーワードは「勤勉」だと思っている。その信念に基づいて行動規範を決定している。世界はあらゆる面で二分化傾向にある。この国でもある意味「勤勉」と「非勤勉」に二極化されるような気がする。これは、論の飛躍かつ単なる寓話化かも知れないが、「勤勉」と「非勤勉」がもし戦争状態になったら、必ず「勤勉」が勝利すると思う。
11日は夕方から雨だったので、高田馬場ケッズにマッサージに行き、走りは休みだった。マッサージが終わって、「きばりやんせ」に行く。都城市の宮田眼科の医師達や高校時代のT先輩らと飲む。僕は酒を止めているので、ウーロン茶で乾杯。懐かしい故郷の話に花が咲く。その後偶然、T先輩の妹(HN・都城の母)から電話があり、彼女と同級生のKと渋谷で会う。「都城の母」は、これまで時々このHPのBBSにカキコしてくれていたが、会うのは実に20数年振り。意外に変わっていなかった。K君とは、僕が企画した95年の同窓会コンペ以来。本当に久しぶりだった。人のことは言えないが、K君は大分頭髪が寂しくなっていた。
12日(金)午後12時50分、田代まさし氏の初公判の傍聴券を得るために東京地裁に並んだ。425法廷傍聴席30名。これを求めて273名が列を作る。殆どはマスコミ各社が雇ったバイトであるらしい。一人2000円が相場らしい。僕の後ろでは、女子高生の群れがキャピキャピしている。当てたらボーナスなのか? 一体どういうことか? どのマスコミ社が雇ったのだろう? 
彼の公判を本心から傍聴したいという意思は、あやふやな平等という概念の下、明らかに無視されている。これがこの国が標榜・採用するコンステテューション・システムなのか? 
1番交付所に並んでいると、どこからともなく新聞記者達が僕に音もなく近づいて来た。「日刊スポーツ」「スポーツニッポン」「スポーツ報知」「東京スポーツ」などの記者の名刺が差し出された。別に呼応するべきコメントは無い。僕の番号「171」は見事に外れ、直ちに地下鉄で学校へ急行。3限の「法学」の途中で、教室に滑り込む。13時30分。授業は既に始まっていた。今日は「著作権(服部克久氏の著作権侵害を例に)」について。いつも思う。「日本の法体系」は、隅から隅まで見事に全部外国のパクリである。その意味も背景も価値観も過程も全て、パクリである。完全コピー。よく「著作権」の侵害に抵触しないな?と思う。自国のスタンダードや矜持や美徳観など微塵も無い。やれ「セクハラ」だ、やれ「コピーライト」だ、「肖像権だ」、やれ「嫌煙権」だ、「PTSD」だ、「告発」だ、「告訴」だとパクリばっかりである。帰国子女なる盲目的アメリカンスタンダード信望者達が、その絶対価値とその本質の概念についてのアイデアもコンセプトも確固たる哲学も持論もビジョンも持たない空け者達が、コンビニエンスに見聞きした受け売りのチープな秩序規準を笠に着て、持ちなれない法律という核兵器を振り回す。アメリカの本質は今回の大統領選挙で嫌というほど知らされた筈なのに・・・・・・・・「暴力」を振るった者が「絶対悪(強者)」で、振るわれたものは「絶対善(弱者)」であるという、二元論の世界観を単純化した浅薄な思惟。不可視的何かが、不可視的ディメンションで、不可視的に変化している。諸君、今こそ「主権」を見直すべきときである。「法学」の授業、携帯電話で質問や回答をするシステム(CANーPシステムとやら)を導入するらしい。一体何がどうなってんだろう? 午後、ある御仁からメールが入る。「東のこと、検察官の人達が褒めてたよ」。今更褒められてもな~。じゃぁ、98年~99年は、あの罵倒と否定は一体何だったんだ? 何だかな~って感じだった。学校からの帰り、早稲田地下鉄前の本屋さんで『創』と新潮文庫の数冊を購入。本屋さんに入って目の前に「芸人学生」が平積みになっていた。自分の本がいきなり目の付く所に置いてあると何だか面映い。思わず、目を逸らしたくなった。帰って、今日も一人部活。1500m×4本、1000m×1本。最後の1500は、5分25秒もかかり、まだまだであることを痛感。アイシングしながら、テレビのニュースショーを観る。画面では、これまたアメリカのCBSのキャスターをそっくり真似た日本人の老キャスターが、可視的な「報道」というよりむしろ不可視的いや不可思議な「思想」を相変わらず打って