まだ、孤独への積極的な参加は続いています。 昨日もメールで配信したように、人と人とが関係性をつくるという行為は「自己の内面を晒(さら)しつつ、他者の内面に思いきって踏み込んで行く行為」です。そこにはすべからく摩擦や衝突が生じる可能性があります。そして、自分が相手を傷つけたり、相手から自分が傷つけられたりします。それらに恐怖し、逃避し、他者との関係性を拒否した状態が「孤独」なのでしょうか? このことは他者を自己目的達成の手段にしている疑義を免れません。 また、ここで言う孤独へのアプローチとは、そのこと(自己の内面を晒しつつ・・・・・・・)への否定的な態度の顕在化を意味するものでもありません。 人がどこまでも関係的な存在であるとする立場は、有意識の層の中で、実質性を具備して行きます。 誠に危険な思想です。 ここで、そう(自己の内面を云々)いう定義化あるいは一般化された通念に安住するのは明らかに児戯(じぎ)に等しい行為だと思うのです。 人独特の孤独の認識という崇高で尊厳な行為に対する思考怠慢だと言えます。 「人間は、孤独不在の存在足りえない」これは自明です。 ならば、「孤独」の正体を突き止め、向き合い、「孤独」を盲目的に嫌悪する思考停止と短絡を排する態度を模索する。  「孤独」との共存に消極的な立場や、「孤独」への不誠実は、翻(ひるがえ)って個々人を「本当の孤独」にします。  「孤独」を見放すことが、真の意味での「孤独」に他なりません。 また、ここで言う「孤独」とは、個人閉塞による人間関係の物化の象徴の意味でもありません。 僕の言う、「孤独」へのアプローチは、同時に「死」という無垢なる個的本質を見出そうとする欲望でもあります。 しかし、「死」を所有物化しようという思考ではありません。 換言すると「人生の始点と終点にのみ本来的な自己があり、そこにのみ真の孤独が存在するのか?」と言う問いとの語らいです。 あまつさえ、個々人が社会的・共同的たらざるを得ないという統一概念と妄信的なロジック(論理)への疑義的アプローチなのです。 君の言う「孤独の相対性・絶対性」とは恐らく対置関係にあると思われる「孤独」の「何か」へのアプローチなのです。 そういう考えに及んだのは、料理やってるときに、ふと見つけた新聞の記事が原因でした。 ある企業が「教育を考える」という大それたテーマで発表した文言を下にそのまま記します。 ここには、ある誤解と、レトリック(巧言)、今日日常的に了解されている考え方に対する決定的な過誤が胚胎(はいたい)していると僕は思います。さて、それはどの部分だと思いますか?ーーーーーー2002年。モノが豊かで、24時間365日便利に暮らす毎日。でも、昔と比べて幸福になった感じがしないのはなぜでしょう。社会はいま経済が最優先されています。人生においてさえも経済的な豊かさを幸福のものさしにしようとしています。流通経済社会は人間の欲望をいたずらに刺激し、一人ひとりの物質的欲望を満足させるモノがあふれています。たしかに物質的には豊かになったように見える私たちの生活ですが、本来「社会性生物」である人間はそれで真の幸福感を味わうことができるようになったのでしょうか? (中省略) もし、ミツバチにハチミツなどの食料さえ十分に与えれば、ミツバチは一匹でも生きてゆけると思いますか? 実はミツバチは、一匹だけで生きてゆくことはできないのです。 ミツバチは、群れ(社会)の絆がなければ生きてゆけないのです。つまり、ミツバチは集団の中の一員として働き、共に助け合う仲間がいることで、そして、共生する花々の自然環境があればこそ生きてゆけるのです。人間も同じではないでしょうか。 人の世界でも、かつての農業社会では、家族や地域が共同で働き、大地と共に生きる生活の中で家族の構成員それぞれが必要とされ、「幸福」を実感して生きてきました。それが経済社会へと変遷してゆく過程で、農業社会の仕組みが崩れ去ったとき、人は真の「幸福感」までも失ってしまったようです。このままでは、温かな人間的な社会は崩壊してしまうのではないかと危機感を覚えるのは、私たちだけでしょうか? 競争至上主義、効率至上主義の経済社会は、教育の世界にも暗い影を落しました。 本来、個性的で多様な才能があるにもかかわらず、一定のものさしでのみ測定され、いたずらに競争を強いられた子供たちは、仲良く助け合い、共に生きることの大切さを学ぶよりも、人を蹴落としてでも人の上に立つことが当り前であるかのように思いこまされて育てられてきたのです。教育現場の荒廃や子供たちの世界に近年起きた事件は、起こるべくして起こったものと言えないでしょうか?---------最後に、「孤独」への積極的なアプローチとして、具体的な問いを一つ・・・・・ある男が新潟で少女を9年間軟禁した例の有名な事件。あの事件で、9年もの長い年月「孤独」だったのは、外界との接触を一切遮断された少女だったのか? それともそれを強いた男であったのか?