橋本治氏は、「バブル崩壊後、従うべき理論が存在しなくなり、日本人は、「勝ち組」と「負け組」の二分化で判断せざるを得なくなった・・・・・・」(『乱世を生きる市場原理は嘘かも知れない』より)という。
 
 果たしてそうだろうか?
 戦後の日本独特の社会主義体制下でシステム化された、「均衡ある国土の発展」あるいは、「一億総中流意識」に代表される平均化――結果の平等化に単に日本人が限界を感じただけだと僕は考える。
 単なる「日本社会主義・共産主義」の崩壊・システム疲労である。
 
 ヒトに限らず全ての高等動物は元々、自らの種の中で差異化を図る生き物である。つまり、それは「弱肉強食・強い者と弱い者の差異化」であったり、「支配する者とされる者の肯定」であったりした。
 
 その本来概念に立ち戻っただけのような気がする。
 これまで一国一丸となって高度成長を遂げて来て、その限界点にまで達したので、これからは国内外で正常競争して、本来の生物の有り方に戻りましょうということなんだと思う。
 それは、また生物の「必然」でもあるのだ。
 つまり、「欲」を肯定する資本主義の中では「当然・必然」ということだ。氏は、本文の中で「不必要な富を望まない選択」を主張しているが、それは少なくとも「進歩主義」や「経済の発展」、または、それらを「最大幸福」と位置づけた人類の選択の中では、まさしく、本人も言うように「負け組み」か、良い悪いや好き嫌いは別にして、世界システムの中で文字通り「負け組」と化した「共産主義」「独裁主義」、あるいは単なる特定思想・信仰の次元の軸付けではなかろうか?
 
 しかし、氏の「中世の朝廷」と「現代の主権者たる国民」を同位置に置いた発想は中々鋭いと思った。
 
 そんなことをぼんやり考えながら、2日続けて福岡大濠公園を走った。
 大濠の周回2kmのコースは完璧だ。
 11日は福大大濠高校の駅伝部と9日に九州朝日駅伝で37年振りに優勝した九電工の選手が練習していた。
 
 10日付けの朝日新聞の「ひと」の欄でその綾部監督を見たばかりだった。面識無いし、挨拶して良いものかどうか?迷った。結局、軽く会釈したくらいだった。
 
 その綾部監督、極度の負けず嫌いで、同期の森下選手(元旭化成ーマラソンバルセロナ銀メダリスト・現トヨタ自動車九州監督)とは現役時代、口もきかなかったらしい。
 そんなエピソードを知っていただけに、どう声をかけて良いやら分からなかった。別に僕は、彼のライバルなんかじゃないが(笑)
 
 12日はその九電工の女子選手が練習していた。こちらは話しかけ易かった(笑)。ていうか、向こうから話かけて来られた(笑)。
 
 8日に菜の花を走って、2日間休んだ。まだ、膝や股関節にダメージは残っている。
 11日に15km、12日に16km、それぞれJOGした。
 いよいよ「学問」と「走り」の始動である。