とうとう今日がやってきた。思えば、去年の11月、今日のレースを第一目標に掲げ、極寒・寒風の中のトレーニングに励んできた。
 11月、210km走った。それまで、月の走行距離は精々100km~150kmだった。それを210に上げた。急に上げると足腰に負担がかかるので、徐徐に上げていく方法を選んだ。
 12月、283kmに上げた。徐徐にインターバルトレーニングなども入れ、走りに飽きないように、場所を、皇居、赤坂御所、駒沢、世田谷公園など、様々に移した。12月末の記録は、駒沢一周2kmを、7分6秒25! これは、今まで最も早かった時期とほぼ同タイムだった。
 1月、309km走った。深夜のランは、寒く、肌が千切れそうで、本当に泣きたくなった。 何度も止め様と思った。でも、止めなかった。 何故だか、自分でも分からない。 いつも、目に見えない何かが、僕の背中を押した。 中旬頃から、足腰に違和感を覚え、故障寸前のギリギリの状態になった。それでも、身体を説得しながら、少しずつ練習をきつくし、自らを追いこんで行った。
 2月、346km走破。28日しかない月の346は中々きつかった。 時々、一日2回の走りを入れ、できるだけ、疲労を分散するようにした。 汗をかいた後のケアー、筋肉のケアー、食事・体調に気を使い、風邪を引かないのように細心の注意を払った。それでも、大寒の折、いつもギリギリの体調だった。いつ倒れてもおかしくなかった。体重は、56kgを割る日が多くなった。2月28日の強風の中のタイムトライアルでは、駒沢1周2km、6分55秒48! 今までの最高記録だった。
 3月、雨が多く、駒沢の室内練習場のトレッド・ミルで調整した。 最高速のレベル16で、まるでハツカ鼠のように走っていると、スタッフが、心配そうに見に来た。初めて、代々木のトラックを走った。12日と19日の計2日走ったが、両方とも天気が良く、とても気持ちがよかった。 順調なし上がりを見せていた。20日までに、234kmを走りこんでいた。
 そうして迎えた23日、悲劇は起こった。3月になって、気温が段々上昇し、それまで身体の調子が絶好調だった。 おまけに宮崎のその日の気温が18℃。 体育館の中は、20℃を超えていた。Tシャツでプレイできるくらいの室温である。 おまけに、身体が思うように動いたので、つい調子にのって、自分の歳も考えず、ハンドボールの特訓に挑んだ。 それが大間違いだった。その日、久々に再会した同期や諸先輩方々との酒宴を開いたせいもあって、翌日、足腰が動かなかった。それから、今日まで、リハビリの生活が始まった。バカなことをしたもんだ。爪に火をともす思いで数ヶ月貯めたお金を、早川に上げたようなもんだった。
 まだまだ、完治していない。 これから、軽いストレッチを始める。今日は、気温が低いね! こう言う日は、余計にこたえる。しかし、後へは引けない。どのような結果になるかは分からないが、レースからは逃げない。
 全力で走る。そう、松ちゃんと約束したから・・・・・・・・「できれば、僕の走りを見てからカナダに発ってくれないか? とにかく一生懸命走る。それは、これからの人生、お互い、全力で走りぬこうという僕からのささやかなメッセージであり、君へのせめてもの餞別だ!」と彼に告げた。
 松ちゃんは、涙汲んでいた。 今日の為に、松ちゃんはカナダ行きを延期してくれた・・・・・・・・・僕は走る。まるでメロスのように・・・・・・・・・
 理想を貫くには、揺るぎ無い信念と勇気が必要だからである。