ある方から以下のようなメールを頂いた。この内容もこの文章表現も、何故か心に残った。
 以下、勿論ご本人の許可を得て、かつご本人のプライバシーに十分配慮した上で、全文を掲載させて頂く。
 
 
 comment : 駅伝シーズン到来!!!
 
あまり興味はなく、走ることには人一倍苦手な私でも
出雲→伊勢→箱根の駅伝はなぜか見るぅんですね。
 
何故に?
 
どうやら私は駅伝に出場する学校に通学していたというだた、それだけのことです。
前にもお話したように、高校は水口東(滋賀県)大学は(あまり言いたくはないですが)第一工業大学。
 
いずれにしても、母校は全国規模の駅伝に出場していたのです。
一度(4年生の時に)陸上部の監督に連れられ、熱田神社から伊勢までずぅーーーっと、陸上部の応援に付き添いをしました。
 
走れない私にとって、走れる人は素晴らしい!人間の限界に挑む人たちだと思っています。
 
大学のころ、私の学生番号の1つ前の学生(友達になりましたけどね)、その友人は陸上部で、どうしでも箱根に出たかった。っと。
人より秀でた走る才能がない自分にとっては、受験の壁は大きくはだかった。だから、こうしてわざわざ鹿児島の、しかも誰でも入れる大学まで遥々、京都の宇治からやってきたっと。ある飲み会で話したことがあった。
 
『?』だれでも入れる学校だと?!
確かに、自分で言うものレベルは低い。大学入学する際に、
とても悩んだくらいだ。
 
私の行きたい大学ではなかった。
周りは国立・関関同立←(関西学院大・関西大・同志社・立命)といった立派な大学に進む友人が羨ましかった。ちょっくら、いじけてた。
自分の努力不足とともに、唯一、滑り止めを受けていた大学だけに受かった。
浪人まで考えた。だけど、一度、行ってみよう。嫌なら、親には申し訳ないが止めて関西に帰ってこようと思った。
今となっては、良かったのかもしれない。
(すいません、話が反れましたが)
 
で、その友人もかなり頭がいい。
なんで?こんなとこ(大学)来てるの?っと聞いたことがあった。そして私にも同じ質問が帰ってきた。
 
彼曰く、箱根は行けなくなったけれど、出雲・伊勢があるから僕はそこで走りたい!!!っと強く宣言していた。
学力も必要かもしれないけれど、社会人でレースにでることは無いと思う。だからこの4年間で思い切り走りたいっと。
大学に入ったころ、この学校が嫌で嫌で仕方なかった。アホ学校だし、程度低いし、田舎だし・・・。だけど走るしかない・・・・・(そのほか、もっと、いろんなこと言ってたように思います。うろ覚えで申し訳ないですが、強烈に残ってるのがこれだけです)っと。
 
4年生の時、北海道マラソンにでるし!っと言い残して、北海道に向かった。レース前日に電話がかかってきた。
テレビに出るからビデオ撮っといて、と。
 
ふーーん、っと言いつつ中継を見つつビデオも撮っていた。
何所だ?と思うと、女子マラソンのトップにくっ付いて走っていた。
へぇー凄いなぁ。
単純にそう思った。走れない私にとっては、凄いの一言につきた。
35キロ時点で急に画面から姿が消えた。
後で確認すると、ペースに付いていけなくて、倒れて救急車で運ばれたとのこと。何という『おち』だ。
 
今、思い起こせば
陸上・長距離ランナーを志した者が、受験に敗れ、それでも諦めず学び舎を選ばず、走りたいその気持ちだけで集まった学生が大勢いた。
朝は7時から自主練習、講義が終わったら日が暮れてもトラックを走り、街に繰り出しロード、戻ってくればインターバルなどと明けても暮れても走ってた。
卒業し、あれから8年の月日が過ぎましたが
毎年、この季節になると思います。
 
どうしてるんだろう?っと。随分、音沙汰なしです。
同窓会にもいってないし・・・。
 
人生にはいくつかのターニングポイントがあると思います。
 
東さんはターニングポイントって幾つありました?
それを気づいた数はいくつぐらいあります?
 
人はチャンスやターニングポイントっと言う物を、自分の手から零れ落ちさせていることもありますよね。
そう、それがチャンスだと気づかなく、通り過ぎてしまう。
気づくという行為が、どれだけ困難で努力をしなければ舞い降りてこないのか。
それは神のみが知る?のかな?(言っておきますが、私は無宗教ですよ)
 

 
   以上。
 
 この文章を拝読させて頂きながら、僕は暫く「ターニングポイント」について考えた。
 自分にとって、これまでの人生で「ターニングポイント」は一体どことどこだったのか?
 確かにあった。「ターニングポイント」で回転し過ぎて180度真反対に向かったこともあった(笑)。
 僕は思う。人にとっての「ターニングポイント」というか「分水嶺」「分岐点」といったものは無数にあるのではないか? と。もっと誇張して言えば、「毎日」「毎時間」でもあるのでないか? と。文章の中で作者も「ターニングポイント」に気付くのは困難を要すると書いている。恐らく、その答えは、「ターニングポイント」が毎日のように、そして毎時間のように襲来して来るから気付かないのだと思う。
 詳細に言えば、今日「走り」を辞めようと思って辞めれば、それは一つの「ターニングポイント」「エポック・メーキング」的出来事になる。
 また、今日から、何か習い事を始めようとか、学校に入学しようとか、逆に学校を辞めようとか、会社に就職するとか、転職するとか、一人暮らしを始めるとか、恋人と別れるとか、病気になるとか、結婚するとか・・・・・・・・・・人には、無数に毎日のようにターニングポイントが訪れているのだと思う。
 その中のどの「ターニングポイント」をどのようにどのタイミングでチョイス・獲得するかが、本来の「ターニングポイント」の正体なのだと思う。