今日、授業が早く終わったので、夜8時から駒沢を走った。久々に8時の青年にあった。僕は密かに彼をそう呼んでいる。8時の青年は、歳は20歳そこそこ。初めて会ったのは、三年前の丁度今ごろだった。夜、いつものように駒沢のジョギングコースを走っていると、前をヨタヨタと頼りなげに走る青年がいた。よれた短パン、黒い靴下、汚れたスニーカー、背中を丸め、社会に謝るように走っていた。僕は、それとなく彼を追い越し、そのまま走った。暫くして、彼が僕の後を追いかけて来ていることに気付いた。ぜぇぜぇ息が上がり、必死の形相である。ランナーは前に目標を置く習性がある。その方が疲れない。マラソンで言うラビットである。 彼は僕を目標と決め、必死に僕に付いて来ようとしていた。スピードはキロ5分程度。当時の僕にとって、永遠に走れる速さである。彼に貢献しようと、暫く、彼を引っ張って上げた。素人走りにしては、なかなか頑張ってよく付いて来るなと思いながら、一周2キロのコースを二週。彼はそろそろ限界である。驚いたことに、どうも、彼も僕のことを限界だと思っているようだ。しかし、彼のよみは間違っている。僕は彼にそのことを知らせるために、そして、彼との現時点での実力の差を知らしめるべく、突然、キロ4分にペースを上げた。落胆の溜息と共に激しい息遣いが、あっと言う間に遥か後ろの方に消えていった。      そのことがあってから、まもなく、僕は例の事件に襲われ、走れなくなった。 久々に駒沢を走ったのは、1999年の春だった。その時、彼に会った。彼は走り終わるところだった。首筋にかいた汗を、汚いタオルで拭いていた。坊主だった髪が少しだけ伸びていた。 まだ、走っていたのか? あれから、ずっと走っているのか? そう思った。それから、何度か、彼に遭遇した。彼は決まって、夜8時に駒沢を走っているようだった。学生なのか社会人なのかは分からない。一度だけ、駒沢大学の方に消えて行く姿をちらりと見かけたことがあった。例え、大学生であっても陸上部ではない。ホームを見れば直ぐ分かる。彼はあくまで自己流である。    月日は経ち、ここ一年くらい、夜8時に駒沢を走る機会がなかった。いつのまにか、彼の存在を忘れかけていた。そして、今日、本当に久しぶりに彼を見かけたのだ。約一年振りに見る彼は別人だった。ミズノのブルーのスパッツに純白の靴下、足には黄色のナイキのレーシングシューズを履いていた。そしてそれは既に履きこなされていた。  後ろから人の気配が近づいた。僕の横を風が通り抜け、背中を見ると、8時の青年だった。まさに疾風のようなスピードだった。とたん、僕にスイッチが入った。思考が僕に命令した。「GO」と。僕は反射的にギアーをトップに入れた。そして、彼の背中にピタリとくっ付いた。速い。彼のスパッツから伸びた鍛えられた脹脛は、アフリカのネコ科の動物を思わせる。完全にランナーの足になっている。おまけに、このスピードで、首筋に汗一つかいていない。瞬間、鳥肌が立った。どこまで、付いて行けるだろう? そんなに長い距離じゃないことくらい容易に想像できる。インターバルであって欲しい願った。インターバルとは、ある短い距離を全速力で走って少し休憩し、またダッシュするというトレーニング方法だ。500mが過ぎた。止めない。1キロを過ぎた。まだ、止まらない。信じられない。キロ3分15秒のスピードで、2キロ目に入った。それも、雰囲気から見て、どうやら彼は僕を追い越すまでに、一周か2周は走っているようだった。それにしても早い。だんだん、僕の息が上がって来る。心臓が高鳴り、内臓辺りが急激に苦しくなってくる。ボクシングでボディブローをくらったような苦しさが断続的に襲う。駄目だ。脳からギブアップの信号が出ている。これ以上、付いて行けない。ここ一年で体重が6キロも増えたし、月に100キロそこそこしか走らない膝はこのスピードに到底絶えて行けない。それにしても情けない。いつからこんなに落ちてしまったのか? 2キロを待たずに限界が来た。何時かの8時の青年のように。その時、何と彼は、急にペースを上げたのだ。我が目を疑った。しかし、小さくなる彼の背中が、非情な現実を僕に教えていた。現実とはいつもそんなものだ。完全な敗北だった。立ち止まった僕は身体をくの字にして這いつくばった。本当はそこに大の字に倒れこみたかった。しかし、微かなプライドがそれをさせなかった。胃から何か酸っぱいものが上がって来た。25度の気温が滝のような汗を額と首筋から噴出させた。濁った汗が、ジョギングコースに書かれた、1600mの白い文字の上に数滴落ちた。所詮、1600mのスタミナだった。その時、1600mの上に二つのスニーカーがすっと現れた。見上げると、8時の青年だった。彼は軽く足踏みしながら、僕に微笑んだ。よく見ると彼の瞳は少年のようだった。そして少年の瞳は、満面の感情を湛えている。青年は僕にペコりと頭を下げ、「ありがとうございました。9時の方」と言った。確かにそう言った。いや、そう聞こえただけかもしれない。僕は疲弊している。正常なコンディションではないのだ。空耳かも知れない。幻想かも知れない。見ると、青年はもう走り出していた。青年から発っせられた爽やかな風が僕の右頬を母の手のように撫でた。彼の言った言葉は本当だったのかも知れない、とその時思った。 彼の真っ白い後姿はあっという間に他のジョガーと闇に消えて行った。彼は僕に一体何を伝えたかったのだろう? 少しの間考えたが、分からなかった。 けれど、その瞬間、彼が僕の目標になったことは事実だった。もし、彼が、3年前に僕をそうしたのであるならば、今度は僕が彼を目標にする番なのだ。そうだ、それがライバルの掟なのだ。僕は立ち上がった。公園の時計が、9時を差していた。はっとした。「9時か・・・・・・・・・」僕は心の中で呟いた。何故か涙が溢れた。悲しい涙ではなかった。歩き出そうとすると、膝がガクガクした。「これじゃぁ、9時のオジサンだな」僕は苦笑した。初夏の風が僕の直ぐ脇を急ぎ足で通り過ぎて行った。今度は僕は振り返らなかった。遠くに、目標を見つめ、8時の青年に別れを告げ、公園を後にした。