11日(火)が一日大阪で、卒論書けなかった。で、今日、一日中、卒論を書いてた。wゼミを欠席し、途中9km走ったが、それ以外は、ずっとPCの前に座って卒論! もうさすがに疲れた。でもめっちゃ面白い。途中、都城市役所の総務課や高城町役場に匿名で電話する。高城や都城の過去の合併(西岳、庄内、中郷、志和地等)について質問。高城は、S23年、町へ、その前の村(明治22年施行)の前、「村」だった前「郷」の頃、「郡」は成立していたのか? または、都城が何故、北諸と線引きされたのか? 等について質問。どなたも「資料がありません」「解りかねます」の返答。「君達は、歴史的創造力が無いのか?」・・・・・・僕が考えるに・・・・・・・明治12年、北諸県郡、を宮崎に、南諸県郡を鹿児島に分割した。その後、明治16年の再配置によって、都城と北諸を宮崎県に吸収し、明治22年に市町村制が施行れたとき、その規模から都城を「町」に、その他をそれまでの「郷」から「村」にした。宮崎の方が行政的・財政的・基盤的に弱かったからではないか? 元々島津の発生だった都城を宮崎に放棄した島津もどうかなと思うが、それが歴史の悲劇・帰着だと思う。では、なぜ、都城と北諸を線引きしたのか? 僕が考えるに、都城と北諸をバランスさせようと考えた時の政府の方針だったのでないだろうか? 都城町と北諸地区の人口・産業・農業・文化・風習ばらんす。それが明治から大正にかけての政治トレントではなかったのか?
 時間がもっともっとあれば、かなり優秀な卒論が書けそうだ。まぁ、人生に「たられば」はないからな~まぁ、出来上がったものが実力だろう。
 しかし、これぐらいのペースでやれれば、後1週間くらいで仕上がるかも・・・・・また「たられば」かよ? ごめん、ごめん! しかし、こればっかりやってられないのも現実。 他にいろいろ原稿も書かなきゃいけないし、ネタだって考えなければならない。来週の月曜日提出の英語のレポートも書かなきゃならないんだよ! つ、辛い! でも、今日19時からOAだったCXの『爆笑オスピー問題』に対して、多くの人から、「面白かった」とか、ご意見を頂くと、与えられた仕事もきちんとやる喜びを感ずる。卒論より、本当は仕事にウェイトを置くのは、社会還元として当然なんだけどね・・・・・・・・
 考えてみたら、何も食べていなかった。あ~腹減った!