来年の春、or秋の「TBS感謝祭」で、例のハンデを克服して、勝つ! と心に固く誓って早1ヶ月が過ぎた。11月の全走行距離は、210km。今月の目標は250km以上。真冬の夜の駒沢公園で、500mと1000mのインターバルトレーニングを続けている。落ち葉が舞い散る暗闇の駒沢で、一人「ぜぇぜぇ!」言いながら馬鹿みたいに走っている。「何で、こんな寒い中、こんなことやんなきゃいけないんだろう?」 なんててブツブツ泣き言を繰りながら、それでも黙々と走っている。しかし、45歳になって、これから自己記録を更新するなんて無謀なことだと、やっと近頃気付き始めている。
 土曜日のK-1や、先日のラグビーの早明戦を観て、思った。「何故?彼らは、命をはって、あんなにまでして、敵チームのラインに、ヘンテコリンな形をしたボールを入れたいんだろう? あのラインの向こうに、一体何があるのだろう? 何が彼らを待っているのだろう?」 快楽か? 達成感か? 満足感か? 金か? プライドか? 名誉か? 栄光か? それとも・・・・・・・・・
 マラソンもそうだ。果てしないランの後のゴールに一体何が待ち受けているのか? 真冬の誰もいない公園をただ只管走る。その行為の先に、一体何があるというのだろうか? 
 僕はその先にある、ある「生きる意味」を見出す可能性を探る。
 僕は、兼ねてから、真の表現方法は、非言語表現の中にあるのではないだろうか? と考えている。スポーツは、非言語表現の中でも、今日最もポピュラーなものであろう。 人は、あえて自らの限界に挑み、切磋琢磨し、直向きに競技に打ち込む選手の姿を見、自らの体験や置かれた状況に重ね合わせ、共感し、感動し、同時に励まされる。ここに派生する、見る側と見られる側の共通のある意識。それらが、見る側と見られる側が共有するゴールそのものなのだ。そして、それらが「生きる意味」の確認作業に他ならない。 プレイヤーとスペクティターは、それぞれの「生きる意味」のゴールを追体験し、その「生きる意味」のキャンバスに、人それぞれ様々なことを描き、思い入れ、そこに重層的な意味決定をする。
 ゴールの先にある、ある種の感動の本当の正体は分からない。その正体を探る為、人はまた新たなるゴールを設定し、目指すのだ。しかし、次もきっと分からないのではないか?と薄々感じている。しかし、もしかしたら何か答えがあるかも知れないと期待し、そしてあわよくば自己の存在理由を決定付けてくれる明晰な答えがそこに存在するかも知れない! そう願い、人は、次のゴールを目指す。その事がまさしく「生きる意味」であり、「生きる意味を探求する」ということであり、それこそが「生きる」という行為そのものであるからだ。
 人は、自らがいつか必ず死ぬと了解している唯一の動物である。次次にゴールを目指し、その最終的なゴールが「死」であるという絶対的で、悲劇的な「生のパラドックス」を百も承知している。その自己矛盾・行為矛盾を前提とするなら、「無」のゴールへ向かう人の意欲や行動規範も何とか説明できよう。「スポーツ」それはまさしく「悲劇」なのだ。そこにスポーツがもつ、非言語的で崇高な決定的興味があるのだ。「スポーツ」 それは、「パラドックス」それこそが、「生きる意味」であることを代弁し、最も雄弁に語りかける人間行為であることを、今日も僕の中で、まるでシェークスピアのように主張して止まないのだ・・・・・・・・・・・・て言うか、今、外、雪降ってない? やばいよ、明日、英語の単語の試験なのに・・・・・あ、それって雪、関係ないか!