リーマンのN氏からメールが入り、今度NYに長期出張で行くらしい。その出張目的が「仕事で負けるため」なのだそうだ。氏は東大から大学院に進学し、工学系のとある専門研究員になった。その後、リーマンに引き抜かれた、いわゆるエリートである。これまでの人生でこれといった「負け」「挫折」を経験してないらしい。その「負けること」が怖くてこれまで必死で勉強してきたのだという。エリートにありがちな人物モデルである。
今度の出張は、「負け」ということを分かっていながら、みすみす「負ける」ために行くのだという。いわゆる噛ませ犬である。
氏は僕にこう聞いて来た。「今回、人生で初めて負ける試合に行かなければなりません。負けることが分かっていて、それでも行かなければならない経験をしたことがありますか?」「そんな試合なんて、これまで何十試合も経験している。ある意味、負け癖が付いているようなもんだ(笑)。驚くのは、そんな試合でもたまに勝つこともあることだ(笑)」「負けるのが怖くないのですか?」「全然!」「そのこつは?」「美学だよ」「・・・・・・・・・」氏は沈黙した。
氏は「負ける」のが怖いのではない。ましてや予め「負ける」のが決まっているなら今更怖くはないはず。氏は、「負ける」ことより「傷つく」ことを怖がり、更にはそういう状況に置かれた自分の「矜持の失墜」を拒絶・嫌悪しているだけに過ぎない。つまり、社会の非合理性、矛盾、反秩序、モラルハザード、努力してもどうにもならないフェノメノン等に対してのアレルギー反応である。
それらに向き合う瞬間の連続が、否が応にも人間の成長を促進していく。それには勿論善の方向(成長)もあるし悪の方向(成長)プロセスもある。どちらにオリエンテッドするかはその人間の才能・才覚次第である。そしてどちらが正解とか不正解とかはない。自然科学の世界では有り得ないことだろう。
「こつ」と聞かれて、僕は「美学」と答えた。「美学の獲得」である。その手の抽象的な問題を解決するこれといったメソッドや特効薬、定数といったものは無いと思っている。あるとするなら「意識の操作」でしかないだろう。「意識の操作」の中には勿論選択肢が無数にある。「美学」という「操作」もその一つであると考える。この選択肢の複数性にエリートは戸惑うのだ。それが彼らの致命的な宿命である。
今回のホリエモンの案件。まぁ、フジと国は当然組んでるとして、リーマンとフジが裏で組んでいるとしたらどうだろう? どうやら世論調査ではホリエモンに支持が傾いているらしい。相変わらずの判官贔屓ということか。先日、ドラマの撮影で浦賀に行ったとき、初めてペリーの黒舟がこの国にやって来たときのことを想像した。あれから100数十年経ってもこの国の体質や思想は変化していない。三島が嘆いた「美学の欠落」は尚もこの国を汚濁し続けている。