18日(日)午後、ダンロップフェニックストーナメントの表彰式のプレゼンテーターとして、宮崎フェニックスカントリークラブの最終18番にいた。グリーン奥の大会関係者席から、最終組の選手の一人が、セカンドショットを打ってくるのを見るともなく見ていた。200ヤード先にいる選手のクラブは、小さく機械のように精密な軌道を描き、そのヘッドがキラリと太陽に光った。
 
 一瞬空に消えた球は、数秒後に鈍い音とともに、目の前のグリーンに落ちた。まるで天使の落し物のように。瞬間、ギャラリーからどよめきが沸いた。ボールはピン手前3メートルに付いていた。
 まさか、ゴルフ場の18番にこういう立場で、こういう形で存在するとは思わなかった。
 午後3時を回り、さすがの宮崎も少し肌寒くなっていた。
 
 半袖の丸山選手は寒そうに両腕を抱えていた。懐かしい景色と懐かしい匂いと懐かしい雰囲気がそこにあった。どれもこれも懐かしかった。そして、そのどれもこれもに意味があった。あれからどれくらい経っただろう。
 あの頃、18番のグリーンに上がるたび、何か心地よい疲労を感じていた。疲労を感じながら、「やっと終わった」いつもそう考えていた。勝ったときも負けたときも。
 
 ピンの下3メートルに付けていると、その疲労が不思議と飛んだ。あの選手もきっと疲労が飛ぶのだろう。
 思えば、そのわずか3メートルのために、毎日毎日血の滲む練習をしていた。ゴルフはわずか3メートルの精確を競う競技である。200ヤードから打ち、1・5インチのボールをピン3メートル以内に落とすゲームである。一見、頗る単純なゲームであるが、200ヤードは近くて遠い。まるで人生のように。勿論、皆、一発で入れることを狙っている。
 
 98年夏、上岡の師匠がアメリカにゴルフと語学留学に行く決定をされたとき、僕も一緒に行く決意をしていた。
 98年10月の謹慎が無ければ、もしかしたら、今、この18番に違う立場で立っていたかも知れないと、ふと思った。10月の謹慎が無ければ・・・・・・・・・「チッ!」僕は、誰にも分からないように、苦笑った。
 
 あれから丸9年が経つ。
 僕はそれから大学に通い、人知れず、ゴルフを忘れた。まるで別れた恋人を忘れるかのように。時々、キャンパスの芝生に寝転がると、草の匂いが僕にゴルフを思い出させた。毎日キャンパスに通い、毎日毎日文学部のスロープを上った。その内に芝生には寝転がらなくなった。
 大学に通い出して二回目の秋だったか、芝生に寝転がってみた。何も思い出さなかった。その時、ゴルフは僕の中から音も無く消えた。
 
 ゴルフはいつしか僕の中でセイジに変わった。セイジを毎日練習していたら、何故か、またここに戻って来た。何ていう運命なのだろう。しかし、今度は立場が違っていた。人生のシニカルには慣れている。その事に少ながらず僕は落胆したのかも知れない。いや、落胆したことに落胆したのかも知れない。
 ゴルフはグリーンにフェアウエーから上がるものである。初めからグリーンの奥にいるものではない。奥からは寄らない。「一体、どうなっちまったんだい」僕は僕に心の中で軽く毒づいてみた。
 
 その時「東国原知事」。誰かが僕を叫んだ。瞬間、まるで条件反射のように僕は振り返った。僕は、声に振り返ったのでは無い。シニカルに対して振り返ったのだ。
 一体、どうなっちまったんだい。