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ロールオーヴァー三文文士

日々、ストレス社会で悶えている破滅型ロックンローラー、天井崇仁のキュートな日常



「2月22日、ブッキングお願いします」と返信をしながら、ニャンニャンニャンの日だな、などと呑気に思っていた。
すぐさま店長から返信があり、スマホを開くと、
「久々に天井崇仁企画にしない?」
とあった。
ダルいな、と一瞬よぎったのは一年ほど前に同店舗で弾き語りの自主企画をした際に、素晴らしい演者ばかりを集めたにも関わらず集客に失敗したためである(演者は凄まじく良く、私は全演者で涙したほどだ)。
悲劇を繰り返さない方法には二通りがある。そもそもの発端となったこと自体を繰り返さないか、前回よりも熱量と準備に力を入れてやることである。
「やります!」
と返信していた。全くのノープランであるし、レコ発でも誕生日でもない猫の日である。おまけに自主企画にしてはまぁまぁ準備期間は短い方だ。
ただ、私なりの経験則のようなもので、スピリチュアル的でもあるが、こういう機会が巡ってきた時に、その人から言われたというより、あたかも天命であるかの如く感じることがあり、そう感じた時の選択にはもれなく感動が待っていることが多いのだ。
そしたらば、まずは自主企画の主役である演者を選ばねばなるまい。ここで守りに入るならば地元で活躍しているミュージシャンで固める、これなら集客もきっと安定し…と考えたくもなるが、「観たいか?その企画」と思う。
地元にこだわらず、かつて取り憑かれたように限界までライブをしていた頃も含めて今まで出会った沢山の演者の中から、よりすぐりの心惹かれた演者を集めた方が良いではないか。集客など私が汗をかけばいい話である。
では、私が心惹かれる演者とは何であろうか。
それを語るより先に、個人的な主観でもって弾き語りライブの魅力を三点、語ろうと思う。
一点目は削ぎ落とされた面白さ、である。基本的にはギターないしは鍵盤と、己の声のみ。ベースもドラムもない、必要最小限の編成。さぞや表現の幅が狭まるかと思いきや、多くが同一の編成であるにも関わらず、鳴らす音楽は千差万別。これが私にはたまらなく面白いことであり、目から鱗であった。自分が弾き語りを多くするようになったきっかけでもある。
二点目は人柄が垣間見れること、である。バンドではどうしたって分散してしまう視点が、ステージに立つひとりの演者に注がれる。MCも当然、その演者自身がする。寡黙な方もいれば、饒舌ゆえにMCの方が長い人もいる。また、弦が切れることもあるし、コードを間違えることもある。不測の事態のリカバリからも、人柄が垣間見れる。
三点目は言葉が聞こえること、である。そんなの音楽なんだから当たり前、と言う方は一度ライブハウスのバンドのライブを観た方が良い。ギターとベースとドラムの大音量に負けずに聞こえてくる言葉というのは案外少ないものである。ところが、弾き語りに関しては否が応でも言葉が聞こえる。ふと、耳に留まるような歌詞に出会うこともある。ふと、欲しがってた言葉で涙することもあるのだ。
私にとってはこの三点目が何よりも大事であり、それを大事にしている演者に心惹かれる。集めたいと思った。言葉が右から左に流れない演者を集めたいと思った。
各々のこれまでの人生から紡ぎ出される言葉でもって、各々の事情でただ一人ステージに立ち、歌う姿はいつだって尊いものである。
ふと頭に浮かんだ「単騎は尊貴」という言葉をイベントタイトルとした。
沢山のご来場、お待ちしております。

あずま(涅槃と概念)
令和四年秋、越谷ごりごりハウスで挨拶した瞬間から「この人は絶対酒好きだ!友達になりたい!」と強く思った。話すと私好みの柔和でユニークな人柄だが、ステージでは力強い。時に囁くように歌い、時に咆哮のように叫ぶ。

勇助
令和三年冬、水戸90EASTで初共演。歳は少し離れていながらも共通点があって何かとシンパシーを感じる男である。まっすぐで優しい人柄に合った、とても彼らしい歌を歌う。

リーノ
令和五年夏、秋葉原ドットドット秋田犬で共演。本イベントの紅一点。優しくも芯のある素敵な歌声。丁寧な彼女なりの言葉選びが印象に残っている。

高木栄一郎(バーガンディーズ)
令和五年冬、ロックンロール以外は全部嘘にて共演。古き良き日本のフォーク色がありながらも、美しいメロディーラインが私の琴線に触れまくる。本当はこの人の後になんてやりたくない。本当は酒飲みながらしみじみ聴き入りたい。