犯罪被害者の法哲学

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藤井誠二著 『重罰化は悪いことなのか - 罪と罰をめぐる対話』  第Ⅶ章




第Ⅶ章 編集者との対話  藤井誠二×双風舎編集部 より

p.221~

たとえば、北朝鮮による拉致被害者の家族集会には万人単位で人が集まりますが、一般の犯罪被害者集会にはせいぜい2~300人くらいしか集まりません。この差はいったいなんなのだろうか、と思うことがあります。防犯集会にも、たくさんの人が参集します。動員もあるでしょうけど、人の「集まりやすさ」ということをどうしても考えてしまう。これは悪いことではない。「集まりやすさ」は、人びとの正義感や何かしなければならないという衝動と結びついていると思います。

子どもたちを主人公にした防犯運動には、もちろん評価すべき点もたくさんあります。誤解してほしくないのですが、「集まりやすさ」=「わかりやすさ」は、どうしても複雑な部分を見なかったり、実効性などを見なかったりする傾向にいきやすいのです。逆にいえば、被害者の運動は、かならずしも防犯運動などとリンクする必要はありませんし、そう簡単にリンクできるものではありません。被害者グループと一言でいっても、犯罪の内容や様態によって、さまざまなグループに分かれているのです。


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「犯罪被害者等基本計画」において、毎年、犯罪被害者等基本法の成立日である12月1日以前の1週間(11月25日~12月1日まで)が「犯罪被害者週間」と定められている。これは、内閣府が国民に対し、犯罪被害者等に対する関心をより一層高め、支援の大切さなどを理解することを目的としている。そして、周囲の人は被害者の気持ちを温かく受け止めて接し、責めたり無理に励ましたりすることを避け、興味本位のうわさ話などを避けることが大切であると説明されている。また、同週間においては予め標語が募集され、最優秀作品は「犯罪被害者週間国民のつどい・中央大会」において担当大臣より表彰が行われるほか、犯罪被害者週間のポスター等にも使用される。平成20年の最優秀作品は、「乗り越える 勇気をくれる みんなの支援」であった。また、平成19年の最優秀作品は、「悲しみを 希望にかえる 社会のささえ」であった。

藤井氏の捉えている地点は、このようなお役所の儀式のレベルを遥かに凌駕する。同氏の最大の功績は、犯罪被害者の活動は多かれ少なかれ国家権力の側に立たざるを得ないことや、犯罪被害者集会には人が集まりにくいことを、率直に議論の大前提に置いたことである。そこから、表面的な美辞麗句ではない議論の足場が形成される。今の世の中では、「我々一人一人が自分のこととして考えて行きましょう」と言えば1分後に忘れられ、「今後の検討課題は山積みである」と言えば10秒後には放置されるのが通常である。罪と罰の問題は、このような方法で片がつくものではない。いかなる人生を歩んできた人が、突然の事件や事故で人生を絶たれてしまったのか。全く関係のない加害者と被害者(になってしまった人)の人生が、どうして一瞬だけ不幸で最悪の交錯をしてしまったのか。これらの問いは、人間の内側に深く沈潜する。ここにおいて、法や制度は無力であり、最終的には生身の人間同士の関係性が求められてくる。これは、法や制度を認めた上で反動的に「人間」を思い出すといったヒューマニズムではない。

藤井誠二著 『重罰化は悪いことなのか - 罪と罰をめぐる対話』  第Ⅰ章~第Ⅱ章




第Ⅰ章~第Ⅱ章  芹沢一也×藤井誠二 より


藤井: 反省なんて本人にもわからないような、空疎なものでしょう。逆に心から悔いているのに、それを言葉にできない犯罪者もいるかもしれません。「謝罪の言葉」なんて嘘でも書けます。「反省が十分ではない」という言い方も、感情の自然な発露です。「反省」の手紙が嘘だとわかっていても、被害者のなかには、文中に改心がこめられた言葉がひとつでもあるかどうかをさがす人もいます。だから、そういった複雑な感情や内面が複雑にからまりあって、たとえば「反省が十分ではない」という言葉に表出されるのだと思います。(p.68)

芹沢: 僕は、司法段階での「反省」の制度化は、「推定無罪」の原則に触れると思うのです。人は判決がくだされるまでは、あくまでも「被疑者」です。これは近代という時代が国民の権利と自由をめぐって手にした、もっとも貴重な成果のひとつだと思います。「反省」という内面に関わることを、自由刑を執行する行刑の立場を越えて全面化する。しかも、その判断が被害者に握られているとしたら、それはやはり危険なのではないでしょうか? 「反省」というロジックのもとに、社会のなかに権力を蔓延させては絶対にいけないと思います。(p.69~73)


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生きたかったのに生きられなかった命を思うと、その人生が悲しすぎる。あるはずであった未来はどこへ消えたのか。ある日突然家族を奪われた者のこのような思いは、政治的に無色透明である。ところが、近代社会が獲得した国民の権利と自由という概念は、これを政治の文脈に押し込んでしまった。愛する人を亡くした人の思いは、左側の思想と衝突し、それによって相対的に左ではないということで、右側に分類されてしまう。藤井氏と芹沢氏の対話は、この辺のところが非常によく出ている。藤井氏がどんなに「右でも左でもない論理」を提示しても、芹沢氏はそれを「右である」と解釈した上で返答をする。会話はキャッチボールである。重い球を投げたのに軽い球が返ってくると、精神的に苦しい。藤井氏が軽い球を投げないように努力している様子がよく伝わってくる。

政治的な主義主張は、根拠や必要性を提示して、相手を説得することが必要である。そのために最も有用なのが、不安を煽ることである。これは右も左もお互い様である。街頭の監視カメラの反対論は、「推進派は犯罪が急増しているとの不安を煽っているのではないか」と述べつつ、「権力の監視による不安を国民に広く知らせなければならない」と述べており、結局は不安の中身が違うだけである。「犯罪不安社会」は右寄りであり、「刑罰不安社会」は左寄りであり、どちらをより不安と感じるのが正しいのかという多数派形成の争いである。煽りたくない不安は煽らず、煽りたい不安は煽る。これは、持って生まれたものの考え方、周囲の教育、個人的経験の違いであって、客観的真実を目指す議論は意味がない。両者の根底に共通する生死の実存不安の一致点を忘れている限り、この種の議論は打ち切るのが賢い。

藤井氏と芹沢氏の差は、哲学的センスの差でもある。なぜよりによって自分の家族が選ばれ、殺されてしまったのか。この問いに正解を導く以前に、この問い自体を正確に捉えようとすれば、自分自身の生死を抜きに考えることはできなくなる。そこでは、不可避的に哲学的な思考が要求されることになり、存在への畏れに打ちのめされる直感が必要になる。藤井氏の被害者支援の活動に対しては、単に左から右に転向したのではないかといった批判も見られる。しかしながら、藤井氏が何回も述べているように、藤井氏が懐疑の目を向けているのは、様々な社会問題を簡単に割り切ってスッキリしているイデオロギー的な思考方法である。芹沢氏は、「いずれ加害者も社会復帰する以上、加害者と被害者はどうすれば共存できるのか」という問いを外側に向かって立てる。これに対して藤井氏は、「被害者はどうしても加害者と共存したいとは思えないのだ」という問いを内側に向かって立てている。


宮崎哲弥・藤井誠二著 『少年をいかに罰するか』


p.324~

藤井: 大げさな言い方だと批判されるかもしれませんが、私自身も含めて、少年法を研究し擁護してきた人々のアイデンティティは、被害者やその遺族の慟哭を踏み台にしていたのですよ。それに気がつかなかったのは愚かです。そこをきちんと総括して、自己反省してからでないと、被害者の言い分に向き合うのは不誠実だと思う。それをしないで、場当たり的に被害者の問題に関わろうとしても、そういう人たちの欺瞞を被害者の人々は見抜きます。


p.339~

藤井: 被害者側にしても、訴訟の動機は、民事訴訟を通じて事実が知りたいのです。しかし、そのために、そうした泥沼の戦いを3年から4年しなければならない。これはこれまで全然触れられてこなかった少年法の問題だと思うんです。しかも、民事裁判では弁護士が少年にすごく厳しい追及をする。被害者側弁護士は刑事記録も他の資料も全部とり寄せて読んでいます。弁護士は少年にたいして容赦しません。
宮崎: 弁護士は(検察官が少年審判に関与すると)少年が萎縮するとか健全育成によくないなどと主張しますが、ただの二枚舌みたいですね。法律界なんてタテ割りの世界です。少年法やってる人は、みなさん刑事法の特別法として専攻しているから、民事は対象外なのかもしれない。


p.361~

宮崎: 日弁連が被害者の問題を等閑視してきたのは、日本の法学教育そのものに問題があるんです。刑事法の場合、被害者のことなんか考えません。学者も考えないし、学生も教わらない。刑法・刑事訴訟法・刑事政策の授業で、被疑者・被告人・受刑者の処遇問題などは物凄く細密に教わるけれど、被害者学はどうでもいいような選択科目にすぎない。そういうところで学習している法曹や法律学者、ジャーナリストたちが、被害者に注意が行かないのは当然です。これはある意味では無理もない。法学の体系がそうなっているからです。


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教育は言語によって構造を作り、世界を作る。世界は言語そのものであり、言語で語られたように世界は見える。これは、一般に言われるところの世界観のことではなく、世界観を成立させている世界そのもののことである。従って、教育を受けた者の世界は、教育を与えた者によって全く変わる。これが教育の重要性である。そして、この重要性は、義務教育も専門教育も変わるところがない。むしろ、専門教育は多くの場合、その教育を受けた者におけるものの見方を一生にわたって固定する。この世界は、全く別の専門教育を受けた者の世界と抵触し、相互にその世界の安定を脅かす者を攻撃し合う。一度作り上げてしまった世界はその中に生きる人々の人生そのものであり、今さら「間違っていました」と言ってしまっては取り返しがつかないことになるからである。

なぜ目の前に被害者がいるのに被害者が見落とされてきたのか、その答えは刑事訴訟法の判例集を見てみればすぐにわかる。八海事件、白鳥事件、練馬事件、狭山事件、草加事件、甲山事件、高田事件、袴田事件、杉山事件、浅井事件、若松事件、名張毒ぶどう酒事件、鹿児島夫婦殺し事件、調布駅前事件、高輪グリーンマンション事件などなど、これだけの判例を読み込めば、その読者にとってそれ以外の世界は存在しなくなる。ここで急に犯罪被害者保護が必要だと言っても、生活に密着した言葉は出てこない。「被害者は大黒柱を失って収入が減少し、医療費等の出費は増える一方、ローンも払えなくなり、残された家族の就業も事実上制限されるばかりか、不慣れな裁判所、警察や行政官庁に対してストレスを感じ、裁判に関する手続に出席する時間の捻出も大変なのです」といった判で押したような言葉が繰り返されるだけである。

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