【武士道精神を喪失した現代日本人】 | ラミーコのブログ3

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共感するので、整体の西田聡先生のメタよりシェアさせて頂きました💕

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 全世界を巻き込んだ新型コロナウイルス騒動も、3回目の夏を迎える。

二年前、騒動勃発以来初めての夏を迎えた時、

さすがに炎天下では暑くて耐えられず、多くの人がマスクを外すだろうと予想した。

しかし予想は見事に外れ、ほぼ全員がマスクを外すことはしなかった。

昨年の夏も、同様であった。

しかし今年の春頃には、諸外国が行動制限やマスク規制を大幅に緩和し、

特定の場所以外では多くの人々がマスクを外すようになった。

その様子はテレビの映像でも伝えられているし、日本でも猛暑による熱中症を懸念してか、

厚生労働省などが、屋外ではマスクを外すことを推奨し始めた。

さすがに今夏こそは景色が変わるだろうと思ったが、それでも日本人の大半は、頑なにマスクを外さない。
 本来、マスクを着用する、しないは各個人の自由であり、どちらでもいいと思う。

ちなみに私自身は、どこへ行くのもマスクは着用しない。

これまでの人生において、マスクを常用した経験がないからである。

それゆえマスク着用の必要性を全く感じないどころか、弊害の方がはるかに大きいと考えている。

そのいちばんの根拠は、マスクだけでウイルス感染が防げると考えるのは、

あまりに稚拙もしくは非科学的と考えるからである。

本気でウイルス感染を恐れ、防止するなら、完全防護服と酸素ボンベが必要なはずだ。

それに万が一、新型コロナウイルスに感染しても、ほとんどの場合は重症化しないことが公表されている。

そもそもウイルスに感染することは絶対悪ではなく、ウイルス感染は、

生命が学習し進化するために必要不可欠な営みと唱える生物学者もいるほどである。
 別の側面で申し上げれば、マスクは正常な呼吸を阻害して苦しいし、

顔面の半分を布で覆われていることに強い不快感を覚える。

さらに申し上げると、一般に販売されているマスクが、

どのような工程でどのような化学薬品を用いて製造されているかを考えると、

マスクを常時着用して化学物質を直接吸入するのは大きなリスクだと感じる。

そもそも政府や行政、マスコミが盛んに喧伝している数字は検査陽性者数である。

「検査陽性者」と「感染者」とは全く異なることを知れば、マスク常用はごく一部の人を除いては、

百害あって一利なしということが容易に理解できると思う。

だから、よほど特別な事情がない限り、私はマスクを着用しない。
 私の感じ方や考え方はごく普通のことであり、多数派ではないにしろ、決して特別ではないと思う。

もしかしたら同意する人も多いかもしれない。

それなのに、いまだに100%近い人たちがマスクを着用して過ごしている状況に、私は激しい違和感と強い危機感を覚える。

なぜなら、日本人の大人の大半が、自ら「私は奴隷です」と宣言しているも同然と思えるからである。

奴隷とは、理不尽なことだろうが、辛苦を伴うことだろうが、

ご主人様が命ずることであれば、自分を押し殺して、甘んじて受け入れる社会的存在のことである。
 大人たちは自分の判断でそうしているので構わないと思うが、

子どもたちのことを考えると黙っていられない気持ちになる。

奴隷に育てられた子どもは、同じように奴隷になる可能性が大きいからある。

奴隷は社会を営む上で必要な存在かもしれないし、奴隷として生きることが悪いとも思わない。

しかし、子どもたちには選択の自由があることと、自らの可能性を信じること、

つまり自分の人生は自分の力でいかようにも切り開いていけることを伝えるのが、

私たち大人の最も大切な役割だと思うのだ。

現代社会を生きる大人たちは、心身の余裕を失い、

その大切な役割をすっかり忘れてしまっていると私は感じてならない。


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【武士道精神を喪失した現代日本人(後編)】
ㅤ話は変わるが、日本の江戸時代は大きな戦がなく、豊穣な文化が花開き、

自然と調和した平和な社会が250年以上続いたと伝えられている

当時の日本を訪れた外国人たちは、一様に驚き、感嘆と羨望の声をあげたと言われている。

ご存知の通り、当時の社会を維持構成していたのは「士農工商」という身分制度である。

このうち「士」は帯刀を許された武士をさし、一般的には「支配階級」と理解されている。

しかしそれは表面上のことであり、「士」が存在した本当の意味は、人として生きる手本を示し、

人々の精神的拠り所となるためではなかったかと私は考えている。

つまり、西欧におけるキリスト教のような精神的拠り所を持たぬ日本においては、

自然崇拝と共に、武士の心得であった「武士道」が庶民の精神的拠り所になっていたと考えられるのだ。

武士道とは、命のやり取りが日常であった戦国時代に発生した、戦士の身心の処し方が元となり、

儒教的思想の裏付けを得て、時間をかけて大成されていった武家の徳目であり、精神的な拠り所である。

武士道は江戸時代において、様々な文化とともに一般庶民に徐々に浸透し、

やがて日本人の精神的拠り所となっていったと思われる。
 武士道精神を象徴するものとして、

江戸中期に書かれた『葉隠』という書物の一節「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な言葉がある。

様々な解釈があろうが、私は次のように考える。

生と死は裏腹の関係にあり、生きている以上は、常に死は共にあるのだ。

いつどうやって死ぬかなど、誰にもわからない。

ゆえに、内発する良心や倫理観に基づいて己の信念を磨き、それを貫くために、

覚悟を持って今を一所懸命に生きることが、人としてとても大切だ……と説いているのではないだろうか。

そして、当時の武士たちはそれを率先躬行し、自らの生き様を通して武士道精神を庶民に示し、

教えるために、勉学に励み、厳しい武術修行に明け暮れたと私は考えている。

江戸時代の社会は諸外国に比して治安が良く、庶民の識字率が飛び抜けて高かったと伝えられているが、

これらの現象は武士道の浸透に起因しているのではないだろうか。
 武士は、そのほぼ全てが男性であった。

それは、力を合わせて命を守り、つないでいくために、

生まれながらに与えられた男女の異なる特質によるものと思われる

精神世界や宗教などで「母なる大地」と表現されるように、女性の主な特質は、命を生み出し、

育くむ母性に宿ると私は考えている。

それに対して「父なる空」と表現されるように、男性の主な特質は、

全ての根源となる存在とつながり、命を守る父性に宿る。

つまり人間社会においては、女性は実際に出産するかどうかは別として、

子孫を生み、育てるのが主な役割である。

それに対して男性は、実際に家庭を持つかどうかは別として、天地の理を踏まえた上で女性と子孫を守り、

彼らが過ごしやすい社会を創造するのが主な役割であると私は考えている。

遺憾ながら、現代を生きる男性の大半がその役割を十分に果たしていないと思えてならない。

それが、現代社会における諸問題の根底に横たわっていると同時に、

問題をどんどん大きく深刻にしていると私は感じている。
ㅤ現代社会においても、武士道精神に則して生きる手本を我が身で示し、

社会や家族を支える精神的拠り所となるのは主として男性の役割だと思うのだ。

しかし、一般会社員はもちろんのこと、官僚、公務員、経営者、自営業者、

さらには社会を良き方向へと導く役割を担う政治家や事業家、医師や学者、宗教家や芸術家まで、

大半の男性が武士道精神をすっかり忘れ去り、骨抜きにされてしまっている。

その結果、我欲を肥大させ、忖度と保身ばかりに専念し、思考することを放棄し、

出る釘になることを恐れて奴隷となりさがり、それを恥とも思わなくなってしまった。

頼みの綱であった武道や武術を修行する者たちですら、全員がマスクを着用して稽古し、

その風景を「感染防止対策は万全です」と得意げにSNSにアップしている様子には、心底幻滅した。

また、マスクは不要、コロナは茶番、みんなで目覚めようと主張しながら、

通勤途上や職場では素顔を晒すことすらできない臆病者たちが、

英雄や救世主をまつりあげて大騒ぎしていた姿が、先の参議院選挙で露呈したのではないだろうか。

生きる手本や精神的拠り所を喪失した群衆は、支配し搾取するために好都合の存在である。

日本人が明るい未来を描けるか、どうか。

さらに申せば、日本民族が生き残れるかどうか。

それは極論かも知れないが、自分自身も含め、

世の男性が武士道精神を取り戻せるかどうかにかかっていると、私には思えてならないのだ。

↕️保坂先生のコメント


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ありがとうございました。

先ずは目覚めている人同士で団結しましょう‼️♥️

わたしたち日本国民の何らかの、氣付きのきっかけとなりますように‼️🙏 wake up JAPAN 🗾😍