「反応しない練習」【困った相手との関わり方】他  | ラミーコのブログ3

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「反応しない練習」【困った相手との関わり方】他
 
反応しない生き方を皆が身につけたら、愛あふれる世界になるでしょうね❓😊💖 

なるべく、反応した方がいい時と、しない方がいい時があるかもしれません。💕

例えば、食事やエッチ、コメントなども おいしい時は、表現反応して相手に伝える💕 

反応しない方がいい時は、最近の出来事でいうと、

マスク警察ならぬウォーキング警察男が、ラミーコに『なんでここ歩くわけ❓何してる❓………』と絡んできましたけど、黙ってスルー‼️

それから、おつかいを頼む母がラミーコに『恥ずかしいからマスクして行きなさい』とマスクを手渡したけれど、

受け取ってもポケットに入れたまま😷着用しなかったり

『いいよ』と断ってみたり

母と一緒のショッピングでは、『 今、口紅💋ぬったばかりだから、マスクはつけられないさ~』と言ってみたり… 

ごめんね🙏母ちゃん空振り三振にさせて(笑)

みなさんも色々あるでしょうね❓😊

…✼••……••✼••……

以下は、ふなきたけのり先生(王子北口内科クリニック院長)のFBよりシェアさせて頂きました。



(前略)

新型感染症の拡大とそれに関する社会の問題がメディアやネット、特にSNSを賑わせています。
 
なんらかのできごと、ひとつの事実があり、それについての誰かの個人的な意見、感情や他者の対応についての批判などが記されることが
多いと思います。
 
そこで、ある問題が生じるのです。
 
「感情をめぐる悩み」です。
 
心の動揺が感情であり、そこに生まれる悩みです。
 
例えば、「政府が新型感染症の拡大を予防するために特定の業種を中心に、~時までに店を閉めるよう、

一般のひとたちも外出を控えるよう指示する」というひとつのできごとが起こると、それを聞いた人の立場や居住地、年齢、職業や政治に関する思想、

原因となった感染症に関する知識、経済面で普段かかえている問題などによって、まったくバラバラの感情を持つのはあたりまえのことです。
 
自らの意見、考えにともなう「感情」です。
 
腹が立つ
くやしい
どうしたらいいのだ
許せない
 
などという感情もあれば
 
うれしい
安心だ
信頼できる
期待できる
 
という感情をもつ人もいるわけです。
 
私(船木先生)が何度か読んでいる本の著者によるとこの「感情をめぐる悩み」を整理するためには、


悩みを2つに分ける必要があると言うのです。
 
ひとつは「感情そのもの」の問題で、対応として深いな感情が生まれるのを防ぐ、わいてしまった感情は

早めにリセット(解消)することが必要であり、
 
もうひとつは「関わり」の問題であって、相手とどう関わるかを考える必要があるのです。
 
実は、多くの人が、私(船木先生)もそうでしたが、この2つをごちゃまぜにしているのです。
 
「腹が立った」(怒りという感情が湧いた)ときには

もう一瞬のうちに相手への反応、つまり「あいつがこう言ったじゃないか」「あの人はこんなことをした」という思いでいっぱいになります。

あとは、怒りの感情と「自分が正しい」「相手はこうすべき」という判断をぶつけ合うだけの終わりの見えない闘い(悩み)に突入してしまいます。
 
結局のところ、職場であれ、学校やSNS上でも「人間関係が悩みの種だ」と言いますが、

これは著者の考えに照らせば不正確だと言うのです。

というのも「感情に悩まされている」ということと

「相手にどう関わればいいか」は別の問題だからです。
 
いったん、
 
●「感情」という自分の側の問題と
●「相手との関わり方」を
 
分けて考え、まずは、「感情」についての解決策を学びたいと思います。
 
「ムダな感情が生まれるのを防ぐ」上で一番重要なのは、最初から「反応しない」という前提にたつことです。

こんなエピソードがあります。
  
~ブッダは、その名の通り「目覚めた人」として、当時のインドで日増しに有名になっていきました。

何百人もの弟子を抱える高名なバラモンでさえ、ブッダの弟子になる者たちが出てきました。

インドでは現在でもカーストが絶対的な意味を持っていますが、ブッダのカーストはバラモン(司祭階級)よりも下のクシャトリア(武士階級)でした。
 
そのブッダに、最上位のカーストのバラモンが弟子入りするというのは、当時は非常にショッキングな事件だったわけです。
 
あるとき、ひとりのバラモンが、自分と同じ姓を持つバラモンがブッダの弟子になったと聞きました

プライドの高いバラモンには、これは許せないことでした。

ものすごい剣幕でブッダのもとに押しかけ、弟子や訪問者たちが大勢いる眼の前で、ことばの限り
を尽くしてブッダに誹謗中傷を浴びせました。
 
あたりには並ならぬ緊迫が走りました。

ところがブッダは、静かに、こう返したのです。
 
「バラモンよ、あなたが自宅でふるまったごちそうを客人が食べなかったら、それは誰のものになるか?」
 
質問されれば、答えざるを得ません。

バラモンは「それは当然、私のものになる」と答えました。
 
「あなたは、その食事をどうなさるか?」
 
「それは自分で食べるだろう」とバラモンは答えました。

すると、ブッダはこう言ったのです。
 
「もし、罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、

その人は相手からの
食事を受け取り、同じものを食べたことになる。

私はあなたの差し出すものを受け取らない。

あなたのことばは、あなただけのものになる。

そのまま持って帰るがよい。
 
(罵倒するバラモンとの対峙 サンユッタ・ニカーヤ)
 
ここでいう「食事」とはバラモンがぶつけてきた非難のことばです。

もし、相手のことばに反応して言い返すなら自分も同じ反応をした~食べた~ことになってしまう。

だから決して受け取らない。

つまり「反応しない」というのです。

苦しみのない心を人生の目的とする以上、反応して心を乱されることが無意味だと、はっきり知っていたからでしょう。

どのようなときも、決して反応せず、ただ相手を見据えて、理解するのみ、という立場に徹していたわけです。
 
このブッダの合理的な態度から学べるのは「反応しないことが最高の勝利である」という理解です。
 
もうひとつ、このエピソードから学べることがあります。

「相手の反応は相手に委ねる」という考え方です。
 
このバラモンには「自分の方が上のカーストだ」という傲慢と、名を知られたブッダへの嫉妬と、

「この男を打ち負かせてやろう」あるいは、「自分のコントロール(支配)下にあるのだと思い知らせてやりたい」という思いがあったはずです。
 
これらは、職場や学校の人間関係にも親子や夫婦、友人関係でも頻繁に見られます。

これに対して、普通なら「なんて失礼な」「それは違う間違っている」「そういうおまえこそなんだ」と言い返したくなるところでしょう。

人間同士の喧嘩には
どちらにも「正しい」(と本人は思っている)言い分があります。

その言い分を押し通して、自分の正しさを確認する、というのが言い争うときの心理です。
 
しかし、先のブッダは違う考えをすると言うのです。

まず、「正しさ」は、人それぞれに違うものだと理解します。

「正しい」という判断は、本人にとっては間違いなく「正しい」のですから、相手の言い分は否定はしません。

「私の方が正しいのだから、分かったか?」という説得もしないのです。

「あなたにとっては、それが正しいのですね」と、ただ、理解するだけです。
 
「そうは言っても、白黒つけないといけないときもある」と思うかも知れませんが、それは次回取り上げる、

「相手との関わり方」の問題です。

ここでは、まず
「反応しない」心の作り方を考えましょう。
 
そもそも人は、持っている脳が違います。

ですから、同じできごと、同じ事実を見ても考え方が異なるのは当然のことです。

人は、「相手は自分と同じ考えのはず(同じ考えを持てるはず)」と、心のどこかで思っているものですが、

この期待・思い込みは、残念ながら「妄想」でしかありません。
 
その上、「自分は正しい」という思いには、「慢」(自分を認めさせようという欲)も、常に働いています。

ですから異なる意見をぶつけられると、自分自身が否定された気がして、怒りで反応してしまうのです。

実際、自信がない人ほど怒りやすいのです。
 
こうした精神状態は、妄想と慢という「非合理な発想」にとらわれた状態です。

リセットして「正しい理解」に立ってみましょう。

それは「相手の反応と、自分の反応とは、まったくの別物なのだ」という理解です。
 
●相手と自分の反応を分けて考える。
●相手の反応は、相手に委ねる。
 
・・・これが、人間関係で悩まないための基本だと説かれていますし、私(船木先生)もまったくそう思います。
 
いかがでしょうか?

特にSNS上で繰り広げられるさまざまな事実についての「正しさ」についての言い争い、「~論」の真偽の論じあい、

果ては、覚醒している、していない、などという「知識」の押しつけあい・・・は実にこっけいな「妄想」に原因があるのかも知れないという気がしてきませんか。

先に述べた「相手との関わり方」については次回、詳しくお話しします。
  
参考にしたのは「反応しない練習」
(草薙龍瞬・KADOKAWA刊)です。
  

 



…✼••……••✼••……


「正しく理解する者は「自分が正しい」と思うこと(慢)がない。

だから、苦しみを生み出す「執着の巣窟」(わだかまり)に引き込まれることはない。」

~スッタニパータ<あるバラモンとの対話>より
 
「反応しない練習」に関する投稿には
想像をはるかに超えた反響がありました。

(中略)
 
感情で「反応しない」心がけの次は、
「相手とどう関わるか」です。
 
「関わり方」とは、言い方を変えれば「相手にどんな心を
向けるか」ということです。

ブッダの考え方の特色として、常に自分自身の心の持ち方、考え方を問う点があります。

「相手に向ける心を確立する」ことで、人間関係で苦しまない生き方が可能になりますし、

SNSの投稿で、いちいち、他者とやりあうこともなくなるはずなのです。
 
ここで最初に、生きている限り常に存在する、

「相手」との関わり方の原理・原則をまとめておきます。
 
①相手のことを「判断」しない

②過去は「忘れる」

③相手を「新しい人」と考える

④「理解し合う」ことを目的とする

⑤「関わりのゴール」を見る
 
まず、①相手のことを「判断」しない、から。
 
マイナスの感情が湧いたとき、私たちは相手のことを、やたら「判断」したがります。

「どこまでずるいやつだ」「自分勝手な人間だ」、「信用できない、信用していたのに」

「もう、付き合う
ことはよそう」などといったように、すぐに、あれこれ結論を出したがるものでしょう。
 
ただ、考えてみれば、こうした判断には危険が伴います。

というのも、判断はいつも、自分自身の承認欲、つまり

「慢」と繋がっているからです。

相手に「ダメなやつ」のレッテルを
貼る。

「本当に困ったひとだ」と嘆いてみせる。

そうやって、
「自分は正しい」と確認したり、相手への優越感を覚えたり
しています。

ここで心がけるべきは「しなくてもよい判断は、しないほうがよい」ということ。

人間にとって一番大切なのは「心に苦悩を溜めない」こと
です。

どんな幸福感も、苦悩(という感情の反応)によって、いつも台無しになってしまうからです。
 
すぐには難しいかも知れませんが、お互いを分かりあう
可能性はいつも残されているものです。

しかし、ここで
相手への判断、断罪、結論を出し続けると、その可能性を
減らしてしまいかねません。

相手が身近で、大切な人であればあるほど、余計な判断は
しないに限ります。
 
「これこそが正しいと主張することを、私はしない。

見解への執着を、ただの執着であると理解して、他者が陥るあやまちをあやまちとして理解しつつも、囚われることはない。

私は自らの心の状態を見つめて、心の平安と澄明さを保つ。」

(スッタニパータ<あるバラモンへの返答>より)
 
②過去は「忘れる」~記憶を相手にしない
 
もう一つ大切なことは、過去を引きずらないこと、忘れること。

人は、過去のできごとをいつまでも覚えていて、相手にも
その記憶を通して向き合ってしまいがちです。

そして、その
記憶が「またか」という反応とともに、新しい怒りを誘発してしまうのです。
 
「過去を引きずる」というのは、仏教で考えると自分の
「記憶に反応している」状態です。

これは非常に重要な
ポイントになります。

最初は「怒り」の対象はある相手かも知れませんが、

そこから離れてもなお、過去を想い出して「記憶」に反応し
新しい怒りを生み出している・・・

というのが、いつまでも怒りが消えない本当の理由です。

もはや、その怒りには「相手は関係ない」のです。
 
もしも嫌な記憶がよみがえったら、その記憶への「自分の
反応」を見てください。

相手と離れてもなお腹がたってしかたがないままのときは、「これはただの記憶だ」

「ここに反応している自分がいるだけ(相手はまったく
関係ない)なのだ」と冷静に理解し、感情が静まるのを
待ちましょう。
 
「あの人は、私を罵った、私を否定した、私に勝利した、
私は奪われた、と思い続ける人は(記憶に反応して

怒りつづけているのだから)恨みが止むことはない。」

(ダンマパタ<ひと組の詩>より)
 
③相手はいつでも「初めて会った人」
 
もうひとつ、相手と向き合うための智慧があります。

それは、相手を「新しい人」と考えるということです。
 
仏教では人も心も「無常」~うつろいゆくもの~ととらえます。

私たちは想いもころころと変わってゆく自分を忘れて、相手も「昨日と同じ人物」だと思っています。

しかし実際には、自分も相手も心の変わった別人なのです。
 
こうした理解に立つと、相手は常に「新しい人」になります。

「過去にあんなことをした、こんなことを言ってきた相手」
というのは、こちらの執着に過ぎず、本当は、「まったく
新しい人として向き合う」ことも選べるのです。
 
④その人と「一緒に理解」する
 
もうひとつ大切なことは、「相手と理解し合う」ことを
最終ゴールにすえることです。

人と関わるときに大事なのは、「反応しないこと」だと学び
ましたが、

しかしこれは、相手に無関心でいるとか、ひたすら「我慢する」ことではありません。

ときどき、いや、かなりの人が、相手に苦痛を強いられているのに「我慢している」人がいます。

「相手に迷惑をかけたくない」「関係を壊したくない」「職場の雰囲気を悪くしたくない」といった優しさや配慮から、じっと耐えているわけです。
 
ただこの「我慢する」というのは、正確には、相手に我慢しているのではなく、

「自分の怒りを抑え込んでいる」状態
なのです。

すでに怒りは湧いてしまっているので、そのまま我慢をつづけるなら、ストレスが溜まり、どんどん
苦しくなります。

こういうときは「心の前半分を相手への
理解に、後ろ半分は自分の反応を見る」ことに努めて、

なんとか反応したがる心に負けないようにしたいものです。
 
もうひとつ大切なのは「理解し合うこと~理解を共有すること~が大事という前提に立っておくことです。

自分自身の感情や想い、考えを相手に理解してもらうこと。

これほど大切なことはありません。
 
「私はこう感じている」「こう考えている」と、相手に伝えること、相手に理解してもらうこと。

それを目的に据えるのです。
 
もし、相手が理解しようとしない、聞こうともしないなら、

それはもはや、関わる意味のない相手なのかも知れません。

どのような関係であれ、一方的な苦痛に耐えなければいけない関係は存在しないはずだからです。
 
ただ、伝えることで相手が理解してくれる可能性があるなら「理解してもらう」ことを目的として、伝え、説明しましょう。
 
⑤「関わりのゴール」を見る~人生の方向性
 
最後にもうひとつ憶えておいてほしいことを話します。
 
「方向性」をよく考えることです。

自分はこれからどんな人生を目指すのか、という方向性に
ついてです。

相手と分かりあうことも、ひとつの方向性になります。

自分の気持ちを理解してもらうことも、方向性です。
 
方向性として、あってはならないものが、「相手と苦しめ合うこと」「憎しみあうこと」です。

そのような関係は、人生の目的にはなり得ません。
 
人はしばしば、苦しめ合う関係を、ずっと繰り返すことが
あります。

関わり合うことの目的を確かめようともせずに、ただ、自分の期待、思惑、都合や要求、過去へのこだわりに執着して、

「正しいのは自分で、間違っているのは相手」と、いつまでも(時に一生の間)思い続けるのです。
 
ここでもブッダが語った
 
「執着こそが苦しみを生んでいる」
 
という理解に戻るべきです。

ただことばで理解するのではなく、実感として、「苦しめ合っている」という事実に目を覚ますのです。

そして、こう考え直してください。
 
『苦しめ合うために、関わっているのではない。

理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのだ。』
  
シェア終わり❗

ありがとうございました。

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↓報道されない社会の現状”について発信する18歳

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↓細川医師



本日もありがとうございました。

おやすみなさい🌝

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