広島 原爆投下から77年 | ひふみ塾 世回りブログ

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今日で広島に原爆が投下され77年です。

先の大戦の悲劇はさまざまな場面で見られますが、中でも1945年3月10日の「東京大空襲」、同年8月6日、8月9日の2度に渡って日本に投下された「原子爆弾」は、非戦闘員を対象とした他に類のない大量虐殺でした。

いずれも、戦争を早く終わらせ、双方の人命を救うという平和目的のためだったと正当化されていますが、特に原爆投下については、明らかに人体実験目的であったことを裏付ける証拠が多々あります。

当然、事実は伝えられることはなく、それどころか、こうした非人道的な人体実験は、現在の社会でも半ば公然と継続されているのが日本の実情です。




▼広島・長崎の人体実験の様相

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。」

東京大学文学を卒業後、広島大学の教授を務め、1993年に退官、名誉教授となった 芝田 進午 氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年にこのように述べました。

また、そのために占領後にアメリカ軍が行なったこととして、以下の4点を指摘しています。

▽占領後にアメリカ軍が行なった所行

①原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占した。

②史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに、治療方法の発表と交流を禁止した。また、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器、生存被爆者の血液やカルテを没収した。

③日本政府には国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させた。これは『実験動物』を治療しては『実験』にならないためであり、米軍は全力を尽くして被爆治療を妨害した。

④被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察する『ABCC(原爆障害調査委員会)』(と称したアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置し、加害者が被害者を観察するという被爆者への人権蹂躙を行った。



▽実験を伝える報道米エネルギー省

ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、広島・長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが 1993年2月4日に明らかにされ、翌5日、朝日新聞が小さく取り上げています。




▼実験結果を拡大するためにとられた残虐手法

①京都大学理学部を卒業後、民間企業で抗腫瘍性抗生物質の研究に従事した工学博士である 若木 重敏 氏は8時15分の前に、爆撃機は広島市上空を旋回し、警戒警報を出させ、その後いったん飛び去り、警報が解除されて市民が安堵感から防空壕や家から外に出てきた頃合いを見計らって、「直ちに反転」して広島市上空に戻り、原爆を投下したことを指摘しています。

そして、一度警戒警報を出させるような飛行経路をたどり、一度海に出るような面倒な動きをしたことについては、「警戒警報が発令されれば、人々はとにかく防空壕に入る。

その警報が解除になれば、緊張して防空壕の中に潜んでいた人々は我先に防空壕の外に出る。
そしてリラックスして不注意になるのである。当日の広島の暑さは27度あったという。この朝の暑さは裸爆撃にもっとも好都合な状況であった」と述べています。「無警告爆撃」の凄まじい成果は、皆さまがご存じの通りです。



▽当日の防空態勢(海軍呉鎮守府)「8月6日午前7時9分、広島県警戒警報発令。
豊後水道及び国東半島を北上せる敵大型3機は、広島湾西部を経て、広島県中部を旋回。
7時25分、播磨灘へ脱去す。
7時31分、広島県警戒警報解除。
8時6分、中野探照燈台、西条の方向に、大型機の爆音を聴取す。
8時15分、西条上空をB29進行、方向は西と報告。」
陸軍の資料、陸軍船舶練習部(軍極秘)では、海軍側とは若干数字が違うものの、7時9分から31分までの22分間については共通しています。



▼実験結果を拡大するためにとられた残虐手法

②1985年に 河内 朗 氏が著した「ヒロシマの空に開いた落下傘」では、人々の注意を惹き付けるために投下された3つのパラシュートについて言及しています。



▽原爆攻撃は最初から最後まで、綿密かつ完壁に計画・実施された

本文より
「1発だから1機でいいのに、2機も伴走させて人々がいかに死ぬるか、観察した。その3機を見て人々が逃げ出さないよう、あらかじめ馴らした。このような準備は、すべて、可能なかぎりたくさんの人を殺そうとしたからである。」

「同じ理由から攻撃の時刻もわざわざ計算に入れた。月曜日の朝、8時15分。通勤・通学のラッシュ・アワー。人々は勝手を知った身辺の防空壕を離れて移動中であった。」



▽「大きく開いた3つの落下傘(パラシュート)」の非道戦後、貴重な証言の中に「原爆とは別の3つの落下傘の目撃証言」がありますが、米側は「観測筒」を投下したとしています。

しかし、理由として挙げられている気圧測定等については、全く無用だったことも明らかにされており、人々の視線を集めるためであったことが裏付けられます。


本文より「なぜ「落下傘」か? 

地上の人間の注意を喚起するためである。
落下傘は現在ですら珍しい。
当時とすれば尚更のことで、結構な見世物になった。
かすかな爆音に気づいたヒロシマの人たちが不安を感じてその方角を見上げると、青く晴れた空にポッカリ、見たこともない落下傘が白く大きく華やかに開く。」「思いがけない光景に人びとは袖を引き、他の人に声をかけ、アレヨアレヨと皆で3個の落下傘を見守った。その背後に「原子爆弾」がツーと落ちつつあるとも知らないで……。そしてその人たちはすべて死ぬか、目を焼き切られた。」

「シルク・ロードを描いて有名な平山郁夫画伯をのぞき、他にあの「落下傘」を見て無事な人はいない。」



▼これでも平和のためなのか

これらの事実を目の当たりにしても、平和利用のためだったと言えるのでしょうか。
後にこの非道をカムフラージュするため、当時の国際法でも違法だった「東京裁判」にて南京大虐殺が捏造されたのもまた事実です。
東京裁判では、これに反論する具体証言・陳述もなされていますが、この映像は「未だに公開されていません」。よく見る東京裁判の記録映像、文書は、都合が悪い部分を取り除いて公開されているものです。本当の機密文書は隠匿し、無かったことにするのが常套手段です。

また、長崎では「浦上天主堂」を当初からターゲットにし、戦後に『神の家の再建』からはじめさせようという陰湿さです。

人類史上最も悲惨な世界大戦に終止符を打つための「人間の罪の代償として天に捧げられた町」とされたのです。

尚、東京大空襲では、40平方キロの周囲に「ナパーム製高性能焼夷弾」を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断ち、その後、約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下されたのが事実です。



このようにして、一夜のうちに10万人以上の民間人(非戦闘員)が生きたまま焼き殺されました。

「東京裁判」で、判事11名中ただ一人「日本無罪」を主張したパール博士(インド代表判事)は、国際法に拠らず、事後法によって行なわれた裁判を、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」であり、違法裁判であると非難しました。

また、後に、広島の爆心地「本川小学校」講堂で開かれた「世界連邦アジア会議」で以下のように述べています。



▽パール博士(インド代表判事)の言葉

「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。
日本は投下される何の理由があったか。
当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
それにもかかわらず、この残虐な爆弾を『実験』として広島に投下した。
同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。
そこに人種的偏見はなかったか。
しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔(ざんげ)の言葉を聞いていない。
彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」



▼人体実験はまだ続いている

これだけの「真実に少しでも向き合う」ことができれば、戦後のウソまみれの日本社会が、さらにどのような陰惨な実験場になっているのか、想像に難くないと思います。

医療・製薬業界、食品業界、化学業界、果ては教育、福祉、さまざまな分野に至るまで、日本を舞台にした人体実験は継続しているのです。




アメリカは原爆で大量に日本人を惨殺しました。

未だに「戦争を終わらせるために原爆投下はやむを得なかった」と言っています。

戦争は絶対に繰り返してはならない!

しかし、なぜ日本ばかりが悪者にされ責められなければならないのか?

大東亜戦争は日本の侵略戦争だったのか?

先人たちが命をかけて戦った大東亜戦争とは一体なんだったのか?



戦後77年、今こそ正しい歴史を学び直し自虐史観から解放され、日本人として日本に誇りを持つべき時が来たのではないだろうか。