静ちゃんへの手紙 | ひふみ塾 世回りブログ

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大石清伍長「妹への手紙」


大阪府出身で、飛行学校卒の大石清伍長は、昭和20年3月13日、14日の
大阪大空襲で父を失い、重病だった母親も亡くす。

肉親は、大石伍長の妹である
静恵さん、当時小学生。

兄が戦場に行き、妹は伯父の元に
引き取られていた。

妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金しており、このような手紙をやりとりしたという。


『静ちやん お便りありがたう。

何べんも何べんも読みました。

お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。

神だな(棚)などに供へなくてもよいから、

必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。

兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、
これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。

では元気で、おじさん、おばさんによろしく。』


戦況の悪化により、鹿児島県知覧のみであった特別攻撃隊の飛行場の補助として作られた万世基地では、昭和20年3月29日から

終戦まで飛行第66戦隊、飛行第55戦隊が、一機、また一機と飛び立った。

同年5月20日、大石清伍長が到着。

その数日後...次の遺書を整備担当であった大野沢威徳氏に預け、出撃し、散華した。


『なつかしい静(せい)ちゃん!

おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。

この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。

思いがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であずけていたゆうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかって下さい。

時計と軍刀も送ります。

これも木下のおじさんにたのんで、
売ってお金にかえなさい。

兄ちゃんのかたみなどより、これからの
静ちゃんの人生のほうが大じなのです。

もうプロペラがまわっています。

さあ、出げきです。

では兄ちゃんは征きます。

泣くなよ静ちゃん。

がんばれ!』


この遺書を預かった大野沢威徳氏は次のような手紙を添えている。


『大石静恵ちゃん、
突然、見知らぬ者からの手紙で
おどろかれたことと思います。

わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。

伍長どのは今日、みごとに出げきされました。

そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。

おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちゃんのつくった人形を
大へん大事にしておられました。

いつも、その小さな人形を飛行服の
背中に吊っておられました。

ほかの飛行兵の人は、みんな腰や落下傘の縛帯の胸にぶらさげているのですが、伍長どのは、突入する時に人形が怖がると可哀そうと言っておんぶでもするように背中に吊っておられました。

飛行機にのるため走って行かれる時など、
その人形がゆらゆらとすがりつくようにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしょに居るつもりだったのでしょう。

同行二人。

仏さまのことばで、そう言います。

苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽっちではない。

いつも仏さまがそばにいてはげましてくださる。

伍長どのの仏さまは、きっと静恵ちゃんだったのでしょう。

けれど今日からは伍長どのが静恵ちゃんの”仏さま”になって、いつも見ていてくださることと信じます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。

静恵ちゃんも、りっぱな兄さんに負けないよう、元気を出して勉強してください。

さようなら』


幼い妹を一人残して逝く大石伍長の悲痛な句が残されている...


「妹のことを伯父にたのみ、駅にて訣別。

妹泣く。伯父上夫婦も泣く。

せめてあと数日、妹の傍に居りてやりたし」


終戦まで三ヶ月弱前の五月二十日、特攻出撃。

「静ちゃん」は十一歳。

大石清の年齢はわからない。

「中学三年から飛行学校」へ
行ったという事から推測し・・・

十七、八歳ではなかったかと・・・