まぼろしの
影を慕いて雨に日に
月にやるせぬ我が想ひ
つつめば燃ゆる胸の火に
身はこがれつつ偲び泣く…
侘しさよ
せめて痛みのなぐさめに
ギターを取りて爪弾けば
どこまで時雨逝く秋ぞ
トレモロさみし身は悲し…
君ゆえに
永き人世を霜枯れて
永久に春見ぬ我が運命
長ろうべきか空蝉の
はかなき影よ我が恋よ…
昭和の大作曲家、故古賀政夫の名曲である…
わたしと同年代の方々(1960年~)でも、タイトルならば知ってはいるがメロディーと共に最後まで歌える方は少ないのではないかと思われる。
わたしの場合、若かりし頃から深く音楽に携わる環境で日々を過ごしていたため、特に歌謡曲のジャンルに限って言えば、演歌(流行歌)やポップス、フォークやニューミュージック、さらにはロックに至るまで、広く浅くではあるが比較的多くの歌謡曲を知っている。
そんなわたしが、何故いまさら“影を慕いて”を改めてブログにアップするに至ったかと言えば、明確な理由は定かではないが、このところ頭の中でこの歌が、のべつまくなしにリフレインされていて、気がつけばいつの間にか小さな声で口ずさんでいたりして、自分でも“いまさら何故…”と思いながら、よくよくその歌詞を噛み締めてみると、名曲である事は言うに及ばず、改めて日本語の素晴らしさを痛感させられた訳である。
例えば“影を慕いて”というタイトルひとつをとっても、恋する事の痛みや、その激情をよく表していると思うし、何と言っても最初の歌詞である“まぼろしの影を慕いて雨に日に…”という表現は秀逸で、いまさら解説の必要もなかろうが、敢えて現代的表現をするなら、“恋しいあなたのまぼろしの、そのまた影をお慕いするほど、わたしの日常はあなたの事でいっぱいなのです…”とでもなろうか…
続けて“月にやるせぬ~身はこがれつつ偲び泣く…”は、“夜更けて一人月を眺めても、あなたへの想いが募るばかりでやるせなく、胸に秘めたるやり場ない、この激しい想いを見過ごせれば、こんなにも身をこがしてまで偲び泣くこともなかったのです…”となる。
これ以降は最後まで現代的表現にて記述を進める…
“侘しさのあまり、せめて胸の痛みのなぐさめにと、秋の夜長を戯れのまま、ギターを手に取りたった一人で奏でてみても、心は癒されるどころか余計に時雨(しぐれ)て、せつなく響くギターの悲しいトレモロ(振音)が、わたしの心を震わせていっそう辛くさせるのです…”
“あなたの事ばかりを想い続けてきた日々は、心に霜が降り積もるほど永く辛いものでした…永久に春を迎える事のない、あなたへのわたしの恋の運命は、夕日に儚く照らされた悲しい蝉の脱け殻の、そのまた影のようなものでしかないのです…”
こうして敢えて現代的表現にしてみると、いわゆる五七調の俳句や短歌に見られる日本的表現は、日本語がいかに優れた言語であるかの証明に他ならないし、短いセンテンスでより多くの情報を伝えられる素晴らしい言語あり、またそこから物語の情景や、主人公の繊細な心情を読み取る能力、いわゆる行間を読むと言うような特殊な才能を、我々日本人は元々持ち合わせている。
つまるところ日本語は美しく、最も洗練された言語であると断言しても決して言い過ぎではない…
“影を慕いて”
これほど美しい愛の言葉をわたしは知らない。